持元さんの好意で、永い事、本フォーラムのチェアマンを担当させて頂いておりましたが、全く役に立たず、また自己の関心も佐渡の狸穴から、佐渡の近代政治史へと
移り、ますます役割を果たせなくなりましたので、サイトオーナにお願いして
チェアマンを辞めさせて頂く事に致しました。申し訳ありません。
フォーラムを通じて、北朝鮮金剛山研究の「のりまきさん」など、いろいろな方と
知己を得ました。
皆様のご厚意に、この記事を通じてお礼申し上げます。
今後も、私の知識と活動の範囲で無理の無いやり方で、このサイトに参加させて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。
久しぶりに暇になったので、岐阜に行ってきました。
県立図書館に行って、前々から引っかかってた明治〜大正の苗木地方の砂錫ブーム
について、色々と調べてみました。
発見から三井系による砂錫買取製錬は有名なんですが、興味深いのはここで「ゴールドラッシュ」のような状況が起きた事です。この地方の土中に砂錫が埋まってると分かった途端、川原から田畑まであらゆるところで住民の人達が土を掘り返してバンニングし、砂錫を売却しに「東濃採鉱社」に押し寄せたそうです。
幸か不幸か、三井はそれ以上の砂錫鉱業に興味を示さず、結局、鉱山として事業が一本化される事も無く撤退。大正の初め頃にはスズコブームは沈静化。史料はほとんどここで筆を置いてます。
そのまま、ブームが生んだズリの山を残したまま、忘れ去られていくかのように見えた。
が、昭和に入るとズリの中にモナズ石など放射能鉱物が多く含まれている事が知られる事になる。すると、今度は当時の「ラジウム」健康法・療法ブームにのって、俄然、このズリが注目されるようになった。スズコブームに比べるとこじんまりとしているものの、再び往時の様に砂錫を採掘する人達も現れるようになったそうです。このブームに乗った女性(特に名を秘す)実業家もいたそうで、何だかワクワクします(笑)。
残念ながら、昭和以降の「ラジウム」に関わる砂錫の歴史はほとんど語られていないようなんですが、今後、暇を見つけて調べていきたいですね。
ここのところ、本フォーラムに寄りつかないチェアマンで申し訳ありません。
折角、設けて頂いたブログの閉じたまま・・
でも、佐渡には通っております。
八月の中旬に一週間ばかり、佐渡の名望家(不思議な言葉)の蔵から
近代の書簡を引き出したりしていました。
まったく、話は別ですが、封建的な時代とか、資本主義社会とか、今は
影が薄いですが共産主義社会とか言いますが、要は体制の機関が何か
と言う規定に指しているかと思います。
その様に考えると今は、会社主義社会かと思われます。
逆さに読んでも・・ではないですが、資本主義と会社主義はどこが違うかと
言うと、金さえあれば会社が運営出来るわけではない・・
と言う点、近代末期から昭和初期は経済機構が簡単だったから
資本=経済=国家で良かったけど、今は経済機構が複雑すぎて
資本だけでは経済は成り立たない。
その要素は何かと言うと、会社と言う経済信仰的自然宗教の様な・・
もう少し考えてみます。
連続書き込みで失礼します。
掲題の件,各地の経済産業局に鉱業原簿の閲覧・謄抄本を請求すればよいようですね。
Internet上の検索でたどり着きました。
初歩的な質問で申し訳ございませんでした。www.shikoku.meti.go.jp/soshiki/skh_d4/1_sesaku/050317/seikyuhouhou-a.htm
旧赤石鉱山閉山は1985年でした。
うろ覚えで書いてはいけませんね。失礼しました。
すっかり間が空いてしまい,失礼しました。
大変遅くなりましたが貴ブログ拝読しました。機会があればしゃちほこの写真も掲載いただければと存じます。
さて,厚かましいお願いを致したく存じます。
小生,愛媛県にあった旧赤石鉱山について調べているのですが,鉱山を経営していた
明治鉱業(株)が1969年に解散した後,閉山(1980年)までの経営主体が誰なのかが
気になっています。
鉱業権者の変遷・履歴は,どこかの役所に問い合わせれば教えてくれるようなものなの
でしょうか? それとも,当事者を探し当てて問い合わせるなどの手段しかないもの
でしょうか? ご教示いただければ幸いです。
私も瓦については無知ですが、燻し瓦と云われてなるほどと思いました。
私の地方(関東)は、竹を焼いた様な銀黒色の光沢のない日本瓦がほとんどで
これを燻し瓦と云うのでしょうね。
佐渡は、光沢のある瓦です。
能登瓦が吸水性があるとは思われませんが、逆につるつる滑るのではと思います。
このサイト内、私のブログ「佐渡学入門」で紹介している泥人形ですが、全国の
泥人形の産地は大抵瓦の産地でして、瓦の副業なのですね。
こんどブログで私の家にある能登瓦屋が作ったシャチホコを写真紹介します。
ご返事遅れて申し訳ございません。
瓦は詳しくなく,書き込みにちょっと気後れしておりました。
また,佐渡訪問中は残念ながら,屋根の方には眼がいかずじまいでした。
Google検索してみると,在来の瓦には施釉瓦といぶし瓦があるそうですね。
特に雪国である佐渡は凍害対策として,吸水性の低い施釉瓦を使用している
のでしょうか。
また,北前船など,日本海沿岸は古くから海運が発達していたことも,
能登瓦の普及に貢献したのでしょうね(推測ばかりでごめんなさい)。
小生の田舎(福岡県久留米近郊)は,いぷし瓦ばかりだと思います。
そういえば以前,滋賀県に転居したとき,雪止瓦を初めて見て,
(雪が滑り落ちた方が雪下ろしの手間が省けて好都合だろうに)
と不思議に思ったものです。もっとも,雪下ろしが必要になるのは滋賀県でも
北部の一部地域だけのようですが…。
雪止瓦のような暮らしの知恵は,実際に長年住んでみないと実感することは
難しいようです。
※小生のような雪の少ない地域出身の読者各位は,
雪止瓦に関する記述のあるページ(下記)をご参照ください。www.kawara.net/danwa/mbbs/mbb.cgi
清水さん、書き込み有り難うございます。
無名異焼は佐渡の地窯の焼き物ですが、云われるとおり金銀採掘の時に排出される土によるもののようです。
話は少しそれますが、佐渡の家々の屋根は黒い釉薬で焼かれた瓦なのをご存じですか?
これは能登半島で焼かれたもので、昔は日本海側の家々に広く普及していたようです。
しかし、明るい色の三州などの洋瓦に圧されて、既に窯は廃れてしまった様です。
私も自分の家に能登瓦を載せたいと思い予算を調べましたが、貨車一台分注文がないと関東までは運べない(採算が合わない)との事で、あきらめました。
私の家に、能登瓦の窯で焼かれた黒いしゃちほこ(高さ30cmくらい)があります。
能登瓦を断念した私に、能登の知人がくれたものです。
しばらく屋根に乗せていましたが、あまり他人が笑うので、降ろして庭の片隅に置いてあります。
屋根に居た時に風雨と陽に曝されて、良い色に変色し小さなひびに覆われています。
廃れ忘れられるものが多いですね。
初めて書き込みします。
佐渡名産の焼き物,無名異焼は,研ぎ澄まされたような美しい窯変が印象的です。
(同じ窯変でも,備前はもっと男っぽく荒々しい)
その美しさに動かされた私は,2000年12月,九州くんだりから関西出張ついで(?)
に佐渡に渡ったことがあります。
五代目伊藤赤水氏の作品をうろうろと眺めていると,ご本人から声をかけられ,
九州から来たと言うと書斎にご案内いただき,1時間半ほどお話を伺うことが
できたのを覚えています。
結局,おいとまするときに氏の作品は買わず,その後訪れた佐渡金山内の土産物屋
で,「ふつうの」無名異焼を買いました。今から考えるとずいぶん失礼なことを
したようにも思いますが…。
そういえば,無名異焼は佐渡金山の残土から作られるそうですね。
以上,鉱山に関する質問でも情報提供でもないのですが,「鉱山」「佐渡」
つながりで書き込ませていただきました。頓珍漢な書き込みでしたらごめんなさい。www.sadotokusen.co.jp/pro/sekisui/index.html
サイトのオーナは何かと苦労がありますね。
私のプログも、自分のやってる事が段々とあまりにも異常な・・
ヘンな意味ではないのですが、一般的ではなくなって参りまして
書ける事が少なくなって若干困っております。
上海の旧租界の事を何度か書いているのですが、
これも
2,26に理論的に関与した右翼のカリスマ(ほんとは社会主義者?)
北一輝の上海での庇護者、長田実が営んでいた個人病院の場所を
探しているのですが・・
なんぞと他人に説明しても「何考えてる!」と、きちがい扱いされるのがオチです。
こんな事書いてるフォーラム記事やブログを会社の人や
親戚に見られない様に祈るだけなのですが・・
持元さんとも長い間お付き合いしているわりには、お会いした事がなく失礼しています。
計算機関係のお仕事との事、私もプログラム開発と販売をしている小さな会社を
数人でやっています。何かの折りにお会いできるとよいのですが・・では。
風間様、いつもありがとうございます。
実は「鉱業の歴史フォーラム」ではなく「探鉱技術フォーラム」が悪質な書き込みの被害に遭っておりました。毎夜3時頃、悪質なサイトへ誘導するリンクを張った記事が投稿されていたのです。
「秘密の質問」は以下のようなコンセプトで作成しました。
・常識的な投稿をして頂ける方にとって、障壁にならないよう易しい質問にする。
・悪質な投稿者に対しては「この掲示板はガードがかかっているな」と思わせるよう、文言を「一見」専門的にする。
・ロボットのように質問を読む能力がないモノに対しては、強力なブロックにする。
ご投稿に際して多少お手間になりますが、ご理解をよろしくお願いします。
PS.日本の金属鉱山の全ての掲示板は閑古鳥が鳴いています。時間を見方につけて気長に運営したいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いします。
持元さんから悪質メールについての書き込みを頂き早速試してみました。
ところで、このフォーラムもさっぱり閑古鳥が啼いている。
なんとか、一時の勢いを取り戻さなくちゃ・・茶屋さんとか、たまには書いてくださいよ。
日本の金属鉱山管理人の持元です。
いつもフォーラムハウスをご利用いただきありがとうございます。
さて、ここ数日毎日深夜に悪質な書き込みが発生しており、ロボットによる自動登録であろうと推定して対策を講じました。
ご投稿の際は、質問をお読みになり、「秘密の答え」を選択してください。
質問は難しいものではなく、鉱業・鉱山に関する初歩的知識で回答できます。
どうぞよろしくお願いします。
PS.4月9日に弊ページが大変つながりにくくなる現象が発生しました。
弊サイトの設備をチェックしたところ正常に稼動しており、DNSサーバ(外部委託)の問題であると推定しております。ご迷惑をお掛けしました事をお詫び申し上げます。
ご無沙汰してます。
ご存知かもしれませんが、下の九州大学工学部のサイトから、鉱山関係の
古文書を読むことができますね。
取り急ぎ、情報のみにて失礼いたします。record.museum.kyushu-u.ac.jp/kouzan/index.html
地元の人が教えてくれた、佐渡鉱山の見学コース
http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000603020004
私も見に行きたい。mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000603020004
各位
風間が念願していた鉱山図書レビュー、オーナが折角新設してくれているので
各位、収蔵図書の紹介してください。
元々レアな鉱山図書、その黒くて稀少な本達を日向に出してください。
宜しくお願い致します。
皆様、あけましておめでとう御座います。
このフォーラムを開始したのが、2001年9月ですから、4年を経過しています。
開始当初、私は佐渡の各所に点在する零細鉱山に興味を持っておりましたので、これらの取材を報告しがてら、全国にそれこそ佐渡で仰ぐ星の数ほどあるであろう金属(非金属)鉱山について、その輝かしかったり、忌まわしかったりする、歴史について語って頂ける場になるのではないかとチラッは思っておりました。
しかし、残念ながらその様にはならず、私のブログ的なだらだら書きと、時折の教えて下さい的書き込み、これに丁重に答える他フォーラム・関係各位と云う推移でした。
4年を経て思うのは、鉱山の歴史・・が共通の感慨を得ずらいと云う点です。
私は以前、私設鉄道史に興味を持ち、niftyの鉄道フォーラムの歴史分科会に書き込みしていた事がありますが、そこには全国の私設鉄道史を横断的に研究している方々がおり、疑問が出ると速攻で調査回答すると云う形で充実しておりました。
鉱山史の場合、その様なスーパーな常連書き込み者を求めることは出来ず、やはり「このまま朽ち果てるか鉱山の歴史」と思わざるを得ません。
今日の朝日新聞に「朝日賞」という文化業績の功労者について書かれていましたが、小沢昭二が大道芸についての研究で受賞しておりました。
この中で小沢は、「國家から擁護された事もない大道芸」と、暗に体制から嫌悪された大道芸人達の事を述べていました。
全然鉱山史と関係ないかもしれませんが、私は鉱山と同様、大道芸、門付け、旅芝居などの泡沫な芸人達とそれを囲む市、露天商、香具師、などの風俗に興味を持ちます。
小沢も自分の研究は趣味である、芸人と云う自分の職業をホッポリ出して行った趣味である、と云っています。
やはり、昨晩テレビで山田風太郎の日記についての番組があり、山田は「日本独自の文化を維持する気持ちのない日本人は、その文化を守るための軍備は必要ないのではないか?」
と、欧米文化に同化する戦後の日本人を批判しています。
団塊の世代ということを云います。私も団塊の世代ですが、彼等または私達が、仕事のために走り続けて来た後の今後に、何に価値観を持って死ぬまでの十年余りを過ごすのか、に日本独自の文化の維持は掛かっている様に思います。
新年のご挨拶をするつもりが、判らない事を書いて仕舞いました。
何しろ私の場合は、佐渡近代の政治史をやり始めてしまったので、これに連なる島の風俗について今後も関心を持ち続けたいと思います。
今年はこの「鉱業の歴史フォーラム」を「泡沫の日本文化フォーラム」と改題するつもりで、関係無い事を語って下さい。鉱山の歴史についてでも、OKっと云う事で。
では、改めて本年もどうぞ宜しく。
茶屋さん どうも、ご無沙汰してます。
私、ますます佐渡近代政治史(と云うと大袈裟ですが、島の政治フリークの生涯を探る)研究にはまり、島通いしています。
このフォーラムも楽しいのですが、鉱山の歴史と云うタイトルが凄すぎるのか、チェアマンの私が勝手放題好き勝手な近況報告ばかり書き込んでも、なかなかそのいい加減さに同調して書き散らして下さる方が少ないです。
そこで、サイトオーナにお願いして「鉱山系古書自慢コーナ」を設けて貰うべく画策しております。
このタイトル系でしたら、このサイトの他フォーラムでいろいろ教えてくれる水晶様など、いろいろな本を持っておられると思うので、これらの紹介をして貰うと資料ともなり、楽しいと思うのです。
かく言う私も、古書収拾は大好きですので、じゃんじゃん書き込みたいと思います。
これまでも、いろいろ所持本を紹介してきましたが、これからは本格的に・・
話は変わりますが、最近、家内共々軽井沢の日帰り温泉に行くのですが(そう言う歳です)
軽井沢に「スズラン堂」(だったハズ)と云う、大規模古書店があるのですが、此処が凄い。
俗に言う古本屋本(古本屋に必ずある本)などはなく、黒い本(業界用語で戦争前の本)が沢山、昔は東京のアチコチにあったような古書店で、その蔵書が半端じゃないです。
私の推測ですが、軽井沢に半ば幽閉された金持ち老人達が買い集めた古書、彼等が死去した後、家人が売りに出した市場を通ってないウブ荷。
此処で本を買う「こつ」は、おじさんが居ない時に、横でブティックやってるおばさんから買う事でとっても格安になります。しかし、軽井沢の別荘地帯が古書産出の在処だったなんて・・最近の発見でした。また、買いにいこうっと。
では。鉱山系古書コーナでお会いしましょう。
風間様
ご無沙汰しております。茶屋四郎次郎です。
このたび日本の金属鉱山が移転されるに及んで、フォーラムハウスが廃止されるお話などあったようですが、私は夜などに、当フォーラムを楽しみに時たま覗いており、密かなファンです。
私にとっては、このフォーラムは絶対的に流通量の少ない鉱山関連の貴重な情報を知りえる他にない場であり、自身の知らなかった鉱山や、人物、歴史について発見ができ、鉱山への憧憬を暖めてくれるので、私自身が投稿する事は滅多になくとも、楽しみにしているのです。
風間様もお仕事とご研究でご多忙かと思いますが、このフォーラムを末永く存続される事を願っております。
先ほどの書込みの14年1月は15年1月の誤りでした。同じく15年1月は16年1月の誤りです。
トネヒロキ様
井上真治様
早速詳しい情報を教えていただき有難うございます。
実は栗山村にも問い合せたのですが、わかりませんでした。
インターネット上でも「西沢金山」で検索したかぎりでは、沿革についての詳しい情報を含む資料は見つかりませんでした。素人の私が「日本金山誌」に辿り着くことはほとんど不可能だったと思います。
辻まことのこの旅についての作品はつぎの3作です。
「ゲレンデ派と山スキーヤー」全集1−135頁(みすず書房)(この作品では二人でツアーをしたことになっています。)
「白い道」全集1−164頁、「山の声」(東京新聞出版局1971)所収(この作品では一人旅となっています。)
「廃鉱の夜」全集1−227頁(西澤金山の名前は出てきません。廃鉱の風景描写です。)
「白い道」によると、まことが手白沢温泉(まことの常宿)の主人宮下老から聞いた会津檜枝岐から日光湯元へ出る古い路を探るのが目的で、無雪季には藪がひどいため冬に入山したものです。
「ゲレンデ派と山スキーヤー」によると入山時期は西沢金山が廃鉱になった翌年の正月とありますから、14年1月と思われます。
「白い道」によると二年前の1月には山王峠から西沢金山に入り、事務所で正月の振舞を受けています。14年1月の状況については<(事務所の中に)書類、伝票のような紙片がいっぱい床に散乱して、不整頓な机や椅子がいいかげんな角度で置去りにされていた。(中略)ストーブの口をあけると雪が一杯につまっていた。>とあります。
また「廃鉱の夜」には<鉄索はきれ、塔は錆び、バケットは落ちて雪の形になっていた。>とあります。
私は一応この旅の時期を14年1月と考えましたが、「白い道」によると、金山から鬼怒川方面への路の門森沢を渡る橋は落ち、前の時トラックが通っていた山腹の路は雪にたたき落され消え去っていたということなので、僅か1ヶ月程度でこれだけ道路の破壊が進むか疑問の残るところです。あるいは15年1月かもしれません。
辻まことファンの集まる「【辻まことの世界】に魅せられて」というHPがあります。http://www.mecha.ne.jp/〜rinko/
私もこのHPの「辻まことファン談話室」に「辻まこと地誌」と「ここにも辻まこと」の二つのスレッドをたてています。西澤金山については「辻まこと地誌」に関連してお願いした次第です。
長くなってしまいましたが、トネ様、井上様本当に有難うございました。
武田信夫様
はじめまして井上真治と申します。
西沢金山とスキーでは、昭和12年に栃木スキー連盟に西沢金山
スキークラブが入会という記事が↓にあります。
http://www.ski-tochigi.ne.jp/soumu/sat/history/history.html
トネさんが述べられているように西沢金山の主要な操業ではそれぞれ3回
の休山がありました。
昭和ということでしたら、昭和14年の休山のようですね。もしかして
辻さんは西沢金山スキークラブの存在を知っていてこのツアーを計画
したのではないかと少々想像をたくましくしました。
西澤金山の絵葉書という報告が、(財)益富地学会館さんが発行されている
地学研究という雑誌にちょうど掲載されたところです。トネさんとkさんと
私の共著になっています。西澤金山の絵葉書は近々別途抜き刷り別刷りが
発行される予定です。
武田信夫さま
はじめまして。
掲示板の皆様もお久しぶりです!!
早速、本題に。
明治以降の西澤金山の操業時期は3つに大きく分けられると思います。
1、1893(明治26)年〜1902(明治35)年の高橋源三郎による単独経営。
2、1906(明治39)年〜1921(大正10)年の「西澤金山探鉱」(会社名はいろいろ変わりますが)の経営時代。
3、1932(昭和7)年〜1939(昭和14)12月の日本鉱業による操業時代。
以上『日本金山誌・第4編』より
辻まことさんは1913(大正2)年のお生まれのようですから、3、の時期が終わったころに西澤を訪れられたのでしょう。
ただそれが1940年1月から同年春までか、それとも40年12月から41年春までの間なのかというと私には断言しかねます(建物の状況等エッセイの中にヒントが隠されているかもしれませんね!)。
いずれにしろ辻まことさんは26〜27歳の時に金田峠を越えられたのでしょう。
切込湖からの金田峠越えは西澤金山の1、の時期に主に使われた道です。それから現在の山王林道とほぼ同じルートの「金山専用道路」が開鑿されました。
『西澤金山大観』は1916(大正5)年発行ですから金山の最盛期に発行されたものになりますので、閉山に関する記事はありません。
西澤金山はまとまった文献もあまりなく、武田様の『日光近代学事始』(ずいそうしゃ新書・随想舎刊)が現在のところ一番手に入れやすい文献ですし、よくまとめて書かれているものと考えます。先に挙げました『日本金山誌』は1994年発行ですが、今では「幻の書籍」となり古書店でも入手が大変困難です。
以上、何かのご参考になれば幸せです。
初めまして
私は鉱業史を研究している者ではありませんが、このフォーラムにお集りの皆様に標記について教えていただきたく、書込みをさせていただきます。
私は、辻まこと(詩人、画家。山、岩魚釣り、スキーなどについて多くのエッセイ(画文)を残している。)のファンです。辻まことは、太平洋戦争前に奥日光の切込湖から金田峠(山王峠の西)をスキーで越え、西沢金山を経て奥鬼怒の川俣温泉に抜けたことがあります。この時、辻まことは西沢金山が前年に閉山になっていることを知らずに大雪の中を入山し、遭難しかけています(「ゲレンデ派と山スキーヤー」、「白い道」、「廃鉱の一夜」)。
このツアーが行われたのが昭和何年であったかを知りたいので西沢金山の閉山した時期を調べているのですが、まだわかっていません。インターネットで西沢金山について調べているうちにこのフォーラムを知り、メールをさせていただく次第です。
これまでに私の探すことができた参考文献は「日光近代学事始」(栃木県文化史研究会近代日光史セミナー編)だけで、同書には「同金山がどのような終末をたどったのか明らかではない」とあります。」
トネヒロキ様
[172]の「西澤金山大観」は絵葉書ではなく書籍のようですが、その中に同金山の廃山(あるいは採鉱中止)についての記事があるでしょうか。
どうかよろしくお願い申上げます。
週末、渋谷駅頭を歩いていたら、渋谷東急デパートの歳事場で古書展を開いていた。
会場をうろうろしていたら「尾去沢・白根鉱山史」1964年発行、を見付けて購入した。
1964年発行
著者は麓三郎、彼は佐渡の三菱鉱山に永年就業し、「佐渡金銀山史話」を著した人。
この・・史話は、佐渡鉱山についての著述では最も詳細を究めていると云われている。
この本を見ると著者は佐渡の前、三菱鉱山入社してすぐに尾去沢鉱山で就業したことがあるらしく、佐渡鉱山についての著述の後、この本の執筆を計画していたらしい。
尾去沢・白根鉱山史も・・史話と同様、三菱金属からの出版となっている。
但し、・・史話で私が??と思った、三菱が払い下げを受けた後の著述が無いのと同様、
この本でも、明治初期の銅山採掘の処で終わっている。
三菱鉱山に、傘下の各鉱山の鉱山史はなく、私企業によって運営された鉱山はどこも闇の中であるのが惜しい。
少し時期を逸しましたが、先週の金曜日から月曜日迄、佐渡に行ってました。
勿論、文書あさりなのですが、たまには家内に付き合おうと、大ノ亀と云う
佐渡の端っこの島に咲いている「かんぞう」を見に行きました。
今年はJRの駅構内に「佐渡百景」とかのポスターが貼られており
かんぞうが背景になっていました。
小型の百合で、緑の草原を黄色く染めていました。
雪の解ける頃、山々は「かたくり」の花が咲き、次は「かんぞう」
佐渡は春の花も豊富です。
少しの間、本を出す事で頭が一杯になり、こちらのフォーラムもご無沙汰してました。
一段落しまして、このフォーラムに金剛山の事書いてくださっていた「のりまき」さんにも
本買って貰いました。
ホントの話、佐渡ではとても人気でして、二ヶ月で二版目の百冊もそろそろ品切れみたいです。
正価より印刷代が高いので売れると困るのですが・・
足尾にはまだ行ったことがありません。
地図で見ると山に囲まれたところですね。私は良く軽井沢に行く途中で安中の鉱山を眺めた
事がありますが・・まったく、鉱山は恐ろしくて、恐ろしさが人を引きつけます。
風間様
久々に投稿します。茶屋四郎次郎です。
現在書店で発売中の雑誌、アサヒカメラ05年6月号に、明治時代の足尾銅山お抱え写真師小野崎一徳の写真が掲載されています。この人は鉱山絵葉書の世界では有名みたいですね。アサヒカメラに掲載されている写真を見ると、明治期の鉱山の様子が克明に見られてとても興味深く、強力な磁力を感じます。以前私も足尾を訪れた事がありましたが、現在ではただ茫漠とした荒れた土地で、もう昔の隆盛は痕跡しかありませんでした。しかしとても記憶に残る土地でした。今日、足尾の土地をひそかに愛する人も多いのではないでしょうか。
ということです。
http://www.asahi.com/national/update/0423/TKY200504220337.html
日本の金属鉱山サイト管理人の持元です。
いつもご投稿ありがとうございます。感謝しております。
このフォーラムにて、ご自身が出版された書籍紹介記事を連続でご投稿頂いておりますが、
フォーラム内は比較的専門色が濃く、閲覧する人数が限られていると思います。
画像掲示板に写真入りで紹介して頂けば、もっとアピール度が高いと存じます。
是非ご検討ください。(風間様のご投稿を見て気づきました。ありがとうございます。)
なお、弊サイトではブックレビューというコーナーも設置しております。
こちらも、メールでご連絡頂けば掲載致しますのでご検討ください。www.ne.jp/asahi/mining/japan/bookreview/
風間さんお久しぶりです。のりまきです_(._.)_
佐渡政党史、出来たのですね。700ページで3500円とはすごいな〜〜しかも2週間で売り切れとは……
私も購入したいと思います。よろしくお願いします!www.norihuto.com/kumgangsan.htm
「佐渡」「佐渡」・・と、うるさかった風間ですが、この度ようやく「佐渡政党史稿」って復刻本を出しまして、主に佐渡地方で好評販売中。
最近はオンデマンド印刷って少量部数発行があるので、どうせ売れないと
100部印刷しましたが、価格設定が安すぎたせいか、2週間で完売。
仕方なく増し刷り100部致しまして、継続販売中です。
なにしろ、A4/700頁で3500円ですから・・赤字です。
「地学研究」に発表した、「日立鉱山の絵葉書」(その1)、
(その2)の合本を作りました。
300枚あまりの明治・大正・昭和初期の日立鉱山の絵葉書の
コレクションから53枚を選んで、それぞれについて撮影されている建物
などの説明や撮影年代などを解説しました。
絵葉書の解説の他、追補として、久原房之助、白熊写真館、
日立鉱山の生産量、日立鉱山の鉱床などを付け加えました。
さらに合本では、序文、目次、後書き
が付け加えられて、モノクロの写真の入った表紙を付け
ました。
B5版で46ページで、販売価格は840円(本体800円
+消費税40円)です。
地学研究の発行元、京都の(財)益富地学会館様(http://www.masutomi.or.jp/)、
神田神保町のすずらん通りにある地方出版物専門の書店・書肆アクセス様
(〒101-0051 千代田区神田神保町1−15 電話03−3291−8474
FAX 03−3294−8065 電子メール access@mx6.mesh.ne.jp)で販売
をお願いしています。
いずれも、通販での取扱いもしていただけます。
びんた切れの水晶さま、いろいろ情報ありがとうございました。
やはり、鉱物の採取ができる観光鉱山がすばらしですね。
特に足尾銅山には一度いってみたいと思います。
神岡鉱山も現在は自山鉱を掘っているのは石灰石のみで、鉛、亜
鉛は輸入鉱と聞いています。
また、精錬技術を活かした廃バッテリーのリサイクルも大きな事
業となっているのですよね。
行ったことがあるのは,西伊豆の土肥鉱山,あと足尾銅山です.土肥鉱山に行ったのは私が中学生の時ですから,もう30年も前です.
他に,尾去沢鉱山,佐渡鉱山,喜和田鉱山なども,観光鉱山をしていたと思います.
このうち,喜和田鉱山は,鉱物の採集ができるそうです.神岡鉱山は,坑道でなくてもいろいろ採れますので,是非鉱物採集も視野に入れていただけると嬉しいです.
はじめまして。
最近、神岡鉱山を擁する飛騨市(旧神岡町)において、都市再生計画(?)を策定する動きがあると聞きました。
旧鉱山を観光鉱山として再生する動きは、各地で取り組まれてきていると思いますが、成功事例としてどこか参考になるような鉱山はあるのでしょうか。
そして、その鉱山ではどのような取り組みをされていたのか、わかるようであれば教えてください。
愛媛の別子銅山についてもさまざまな取り組みがされているようですが・・。
http://www.my-concierge.org/shikoku/niihama/
日本で稼行している数少ない非鉄金属鉱山の豊羽鉱山(札幌)が
2006年3月に閉山するそうです。
http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20050210AT1D1006310022005.html
http://release.nikkei.co.jp/detail.cfm?relID=93109&lindID=4
光竜鉱山も怪しいという噂なので、北海道における金属鉱山は
近いうちに全て無くなってしまうかもしれません。
最近、仕事で上海に行くものだから、辛亥革命の頃の上海の事を書いた本を読もうと、まず
「現代日本記録全集」と云う、24冊の全集を求めた。
19卷目の「大陸を駆ける夢」と云う冊に、その手の著作のサビの部分だけが収録されている
が、歴史好きの皆さんこの冊がキメとご存じのようで、バラ売りの場合には大抵此冊だけ売れてしまっている。仕方なく揃いを買った。
大した金額ではないが、部屋に場所だけは占めてしまう。
でも、そのうち、他の卷もポロポロ読めばそれなりに面白いとは思う。
この、19卷目を読んでいたら「内山完造」の日記風自伝「花甲録」の一部が掲載されており
面白いので、これはと思い、別に求めて読んだ。
彼は最初、参天製薬の社員として中国で大学目薬の広告業務に就き、その後長く上海の日本租界で、聖書を中心とした書店を経営する一方、在留日本人と中国人の融和に尽力した人であり、
彼の自伝には、大正頃の租界の様子が描かれていて興味深い。
少しご無沙汰していて、画像掲示板を覗いたら、鑛山鉄道の写真が掲載されていた。
佐藤さん、素晴らしい!どんどん、楽しい鑛山鉄道の写真を見せて下さい。
少し皆様に宣伝ですが、
私も数年来手を付けていた、佐渡の近代政治史の本「複刻・佐渡政党史稿」を漸く発刊する事
になりそうです。
この本は、明治佐渡の政客、齋藤長三と云う結構筆まめな人が纏めて発刊に至らず、幻の稿本
となっていたものを複刻した物です。
(関連コメントがこのフォーラムの若い方にあり)
本体ページは完成し、関係の研究者が賛助論文を執筆中なので、これを加へて来春には・・
でも、あまりにマイナー過ぎて、まったく売れず、と思われます。
一応、ページ数だけは多くて、A4で500頁、地方都市の電話帳みたい?
全然話しは鑛山ではないのだが、最近深夜のお笑いニューウェイブ番組に凝っている。
今一番好きなのは、「これからあれから」とか云う二人組、(いつもここからさん、名前覚えなくてすいません)彼等の暴走族ネタも面白いし、「可愛いね」ネタも楽しい。
後、「ギター侍」の・・も楽しい。
こんなのばかり見ていると、決め言葉が頭に染みついて、これだけで日々を過ごしてしまう。
会社で話を終わらせたい時なんか「間違いない!!」なんて云って去る事にしている。
ハナワのネタはガッツから松島トモ子に変わったが、どちらにしてももう駄目だろう。
「間違いない、切腹」
湯之奥金山博物館 平成16年度公開講座の講演会の日程です。
11月13日 江戸幕府の天領政策と鉱山経営〜金銀山は天下の山〜 村上 直(法政大学名誉教授・文学博士)>
第37回 12月11日 日本の大開発時代を考える〜石見・佐渡・甲斐、人と文明の交流〜 田中圭一(筑波大学名誉教授・文学博士)
第38回 17年1月22日 武田信玄の駿河侵攻と甲斐・駿河の金山 小和田哲男(静岡大学教育学部教授・文学博士)
第39回 2月5日 産業遺産としての日本の金銀山〜石見銀山の世界遺産登録をめぐって〜 村上 隆(奈良文化財研究所主任研究官・学術博士)
第40回 3月4日(土) 自然遺産・文化遺産の保護と活用〜世界遺産のあり方を考える〜 田畑貞寿(千葉大学名誉教授・(財)日本自然保護協会理事長)www2.town.shimobe.yamanashi.jp/kinzan/events.html
北一輝好きの女性だなんて、なんてステキな事・・
学問的/文学的な議論をさせて下さる??ならぜひ、ご紹介下さい。
日曜日にはまた中国東方航空の客になるのですが、今度の度は
仕事ばかりで、エスケープは出来ない模様・・残念。
風間さんこんばんは。
バンキシャ見ました(笑)。実は私たち、ちょうど同じ時期に金剛山に行った人と会いまして、いろいろと興味深い話を聞くことができました。金剛山観光も色々言われながらもうすぐ開始6年を迎えます。今後どうなっていくのでしょうか?
上海、面白そうですね!また是非お話聞かせてください。
ところで、私たちの友人で佐渡出身の女性がおりまして、風間さんのお話をしたところ、ぜひ一度お会いしたいと話しておりました。ちなみに彼女は北一輝のファンだそうです(笑)。
佐渡政党史、楽しみにしております。ではまた!www.norihuto.com/kumgangsan.htm
どうも、この前は新聞への記事掲載のお知らせを頂き、皆さんにも知らせようと、このフォーラムに書いていたのですが、途中で間違って消してしまい、それまでが余りに長文名文?だったものですから、無力感に苛まれ、書き直すのを断念しました。すんません。
この前、夕方の報道番組「バンキシャ」(私は菊・・が嫌いですが)で金剛山訪問の特集をやっていました。相変わらずの日本国・民間TV特有の北朝鮮の就業者をからかう様な報道振りはへきへきしましたが、「こんな処にのまきさんも行ったのだなあ」って処は楽しかったです。
私はここのところ上海づいていまして、17日から22日までまた上海に行きます(仕事)。
その足もとを見て旅行社がディスカウントチケットの価格を上げてきまして7月は5.5万円だつたのが、今回は6.9万円です(往復)。
のりまきさんが来た時に構想をお話した、佐渡政党史の本も今年中の出版を予定しており、島の諸先生に論文の執筆をお願いしたりしています。
後、人名索引を作っているのですが、500人位になるので捗りません。
本はA4で550ページ程度の予定・・。ではまた。ふとまきはんにもヨロシク。
各位、すいません。のりまきさんとの個人的に通信になっちゃいました。
風間さん、そして皆様こんばんは。のりまきです。
少々こちらにはご無沙汰しておりましたが、皆様様々に研究を進められているようですね。
風間さんの上海のお話、興味深いですね。私も最近、色々調べていても、やはり生の現場、生の体験談を聞くことが一番良いな〜〜と感じます。
ところで私は静岡県の沼津出身……そういえば我が母校の裏手の山に、その昔金山があったという話を聞いたことがあります。
また、横浜の妻の実家のすぐ真下では、数十年前にガラス用の珪砂を採掘していて、以前は時々思いもかけぬ陥没事故があったりしたとか……人間の営みの中では、黙っていれば忘れ去られていくことも多いのだろうな〜〜そんなことを最近感じています。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
浜松出身のものなんですが、浦川鉱山の存在は全く知りませんでした。
久根・峰乃沢以外だと遠州地方の鉱山は、途端に知名度が低くなりますね。伊豆半島はかなり小規模な鉱山まで研究されているんですが……
以前、浜北市岩水寺周辺の石灰石鉱山を調べたのですが、
旧住友セメント浜松工場(引佐町)関連以外では、ほとんど資料が残っていませんでした。図書館にも無く、わずかに戦前に地元の石灰製造業者(肥料原料として販売していた模様)が出版したパンフレットのような物が残ってるだけでした。
ちなみに、ここは「浜北人」の骨が出土した場所(根堅遺跡)なんですが、大きな石灰採掘場跡以外は何も残ってません。
あと、これら以外の遠州の鉱業だと、明治〜昭和30年代位までの湖西や
三ケ日でのマンガン採掘がありますね。
(湖西大知波鉱山の資料は『湖西市史』に詳しいです。)
関係ない余談になってすいません。
土曜日に街に出たので、広尾のありすがわの宮公園の中にある都立中央図書館で、昭和初期の上海租界の商業地図がないか探して見た。
まず、見付けたのは「上海在留邦人が造った日本人街」と云う地図本。
戦後になってから、日本に引き揚げた上海の人々が昭和17年頃の街路沿いの店を思い出して造った商業地図である。
日本租界の大半は・・洋行と云うホテルであり、北一輝も一輝を尋ねてきた大川周明も、その頃海軍陸戦隊御用達の宿屋だった「松崎洋行」に泊まっている。
このホテルはすぐ見つかったが、一輝が長く滞在した「太陽館」などの旅館は、この地図には見当たらない。
この地図を造った長崎に住む松田さんと云う大正七年に上海で生まれたと語る古老に電話を掛けていろいろ聞いた。
前述の松崎洋行も軍関係のホテルだったが、上海には有名な処では「児玉機関」の様な情報機関とその出先が沢山あり、これらもホテルや他の会社を装っており、上海に骨を埋めようとして日本人街を築いて来たモノ達とは、別の世界があった・・。と、上海事変以降の上海の様子を語る。
ちょっとした事を調べると、その先にぞろぞろと興味をそそるモノ達が連なっている。
長崎まで、彼の古老の話を聞きに行きたくなった。
先週、仕事で上海に行きました。
7月にも一泊二日で行ったのですが、今回は少しは時間的な余裕もあり、街にも慣れたので、昔の日本租界の辺りに、昭和初期の日本人街の面影を探してみました。
佐渡近代を探求している風間のひとつの柱は北一輝であり、一輝が辛亥革命と反日の嵐の中で過ごした上海は、彼の思いでの場所のひとつだったに違いありません。
彼の地は今、スラムと新築のビルが混然としている混乱の街です。
人的にも、昔の江戸のように在所からはみ出した食えない浮浪の民がまぎれ込んだ都会をそのままに無気力と無法が充満していると思えば、彼らとは別の勝ち組の人々がベンツで歩行者を引き倒す勢いで走っています。
日本の阿吽の呼吸の様な秩序はまったくない・・地下鉄は、だれも降りない内にホームの全員が乗り込んで来て、押し返されています。
上海の古い地図と、児玉嚢の日中戦争、上海事変の項の道の名前を読み返しながら、租界の路地をウロウロする日本人の私は、うろんな奴だと自分でも思います。
AZUMAさま
こんばんは。
ご返事が随分遅くなり申し訳ない気持ちでいっぱいです。
旧い鉱山の所在地ならば、すでにご存じでしょうが『日本鉱業発達史・上巻』(昭和7年、鉱山懇話会)に少しながら記述があります。
図書館にてお探しになってはいかがでしょうか?
ここのところ書き込みをしていると鉱山の歴史なんてすぐに消えてしまうものだなぁ……というのが実感です。
水谷真里さま
こんばんは。
私、浅学なもので安藤政次郎という方についてはなんの知識も持ち合わせていません。
これで返信メールを送ろうというのですから無謀なものです。
静岡県磐田郡の出馬(いずうま)の「ニッケル鉱山」ついては『日本鉱山誌1−c
』に記載がありました。
1944年からの記録ですが鉱山名は「浦川鉱山」。
鉱山は、休山などを繰り返しますので、古い資料についてはよくわかりませんが、同じ鉱山ではないかと思われます。
「アンチモニー鉱山」については同シリーズでも確認できませんでした。
吉沢の銅鉱山に関しては、「久根」「峰之沢」という二大銅山が近辺にありましたのでまだ調べる余地がありそうです。
岐阜県本巣郡・武儀郡には「マンガン鉱山」がたくさんあり、お手上げです。
総じて「明治期の鉱山文献」については「乏しいのではないか」というのが個人的な感想です。
あるところにはあるのかもしれませんが……。
旧い鉱山については、どんどん忘れられていく……そんな感じがしてなりません。
室屋長兵衛さま
ご質問のあったときから生月島のことを気にかけて調べておりました。
やはり個人の力では限界がありますね。
『長崎県鉱物誌』「日本鉱産誌」シリーズ『長崎県内予察地質報文』『角川日本地名大辞典』などをあたってみましたが、生月島からの鉱産物は見られませんでした。
残念です。
キリシタンと鉱物資源ということになりますと「近世」になりますよね。たぶん。
そのころの文献についてはほとんど知識がないもので……。
ご返答にならず申し訳ありません。
茶屋さんこんにちは。
所見をチラット・・・地域の文化財についての研究に、昔から熱意を持っているのは、学校の先生です。ある意味、地域の知的水準を維持する役割を果たしていたと思われます。最近の地方の学校状況をかいま見ますと、先生が忙しすぎて研究する時間がない
ことが判ります。
夏休みも出勤、生身の学生生徒との対話と、休むひまがないのが、まともな先生の生活の様です。子供を預ける先生にくらい、自分を深め、地域を文化水準を高めるための時間をあげたい。
室屋さん初めまして。
私は佐渡専門ですが、佐渡相川の山の中にもキリシタン処刑跡の碑があります。
その歴史は知りませんが、鉱山の繁栄と人混みの中に、隠れ暮らしていたキリシタン
さん達が居たのだろうと思います。
ちょっと、別の話
明治初年に、寺の人別帳ではなく、近代戸籍を作るべしとの太政官布告が出たのだけれど、実施したのは京都と佐渡だけだった。以前は閲覧可能だったこの佐渡の古い戸籍が今は閲覧出来ない。理由は明治に新平民となった被差別の人々などの戸籍を公にするなどの悪意ある活用が懸念されるため。 こんな難しい事、にわかには意見も出せないが、忘れてはならない事柄・・
水谷さんこんにちは。
コメント拝見しました。ご質問について何の知識も持ち合わせませんが、人について調べるのはとっても素晴らしい。
鉱山について調べて、だれが掘ったかを調べない、登場する人物をらち外に置いた研究は間違いと思います。人の吐息の聞こえる伝記をお書き下さい。
愛知県豊橋市で明治期の動物園を開園した安藤政次郎という人物の伝記を作成しようと思い、資料を集めています。
この人は動物園を経営する傍ら鉱山事業をして資金を集めたような記述があります。時は1894 (明治27年)から1902年明治32年の間ですが、静岡県磐田郡出馬で「アンチモニー」「ニッケル」を、 同郡吉沢において銅鉱の採掘をしたといわれています。又
岐阜県本巣郡及び武儀郡において、「マンガン鉱」に採掘事業を開始したとも顕彰碑に書かれています。これらの記述に関して全くの知識がありません。調べるべき文献など情報を教えてください。
かつてのキリシタンたちの足跡は、各地の鉱山遺跡に残っていてとても興味深く思っています。近年出土した石見銀山のキリシタン墓などはキリシタン史と鉱物史との接点を如実に物語っています。
隠れキリシタンの里として有名な生月島。こちらにも鉱物資源があったと聞きましたが、どのようなものだったのか教えてください。www.murocho.com/
お久しぶりでございます。茶屋四郎次郎です。
今日的全国的規模の市町村合併の政治的成否は私にはよく分かりませんし、正直政治には恬淡として関心が薄いのが本音です。しかし鉱山遺構群の保存もしくは破却、または放置といった遺構の運命は、地方自治体の成員の知的レベル・歴史的遺構に対する関心のあるなしに大きく左右されるので、合併以前までは廃墟化しつつも残存してきた鉱山の遺構が、あらたに発足した自治体のきまぐれな方針転換とか思いつきによって、突然破却され始めるなどと言う事態も懸念され、もし万が一そうした事態が国内のあちらこちらで惹起されでもするならば、これまでとっくに、世の中役人天国と諦観してはいたものの、晴らしようの無いルサンチマンの塊に自らがなってしまう気がしてなりません。
私が居住するここ長崎県でも市町村合併は大規模に進行中でして、かって高島炭鉱のあった高島町も来年初頭には長崎市になります。当然気になるのは高島町にある小さな石炭資料館とか、取り壊されずに残存している廃墟群です。合併後発足した新自治体によって官僚主義的・形式主義的・気まぐれ的に消去されるのではないかと心配です。
佐渡・相川町ではどうなのでしょうか。あの浮遊選鉱場、旧相川拘置所、大間の海岸に残っていたコンクリートの橋脚跡、大竪坑跡・・・
何とか壊されずに残っていってほしいものです。
ここのところ、皆さんいろいろ書いて頂いておりますが、拝見するばかりでした。
私の佐渡近代探求の旅も、お休みではなく、盛んに活動しております。
八月もだった四日間ではありますが渡海し、島を駆けめぐって来ました。
ご承知?のように、佐渡は沢山の町村が合併して一島一市になったばかりですが、この過渡期に問題なのは、島の古文書などの文化財の管理です。
これまでは、町村が県の下に属していましたから、競うように各町村の文化財が管理保存研究がされていました。ところが、合併の結果これまでの町村は・・地区のような存在になり、文化財の管理が新たな市によって統一されるまでの間に散逸恐れがあります。
佐渡市の教育委員会などは、この文化財管理の統合のために走り回っていますが、なにしろ地域の歴史を具現化しているしろものですから、地元のお爺ちゃん達の協力がなくてはなりません。などなどの事は一佐渡だけでなく、全国の合併過渡期の町村に起こっている事なのでしょう。
Tepesiサン
azumaです、ご返事ありがとうございました。
ご指摘のように考古学の世界ですが、旧来の考古学ではなく
様々のデータから古代を類推する事に興味があります。
古代を類推するに足りる鉱物の産出のトレンドデータを探していまして
メールさせていただきました。
なかなか、有りませんね。
日本鉱業史要はサマリーをインターネットで読ましてもらいました。
どなたか、そのような関連のご存知でしたら、教えてください。
鉱山ニュースにも投稿しましたが、重複となりますが、
こちらにも投稿させていただきます。
「地学研究」に発表した、足尾銅山の絵葉書(その1)、
(その2)、(その3)の合本を作りました。
明治・大正時代の足尾銅山のお抱え写真師・小野崎一徳の
孫にあたる小野崎 敏氏の足尾銅山絵葉書コレクション
についてまとめました。
小野崎氏の数百枚にもおよぶコレクションから72枚の
絵葉書を選んで、それぞれについて撮影されている建物
などの説明や撮影年代などを解説しました。
絵葉書の解説の他、追補として、小野崎写真館と
小野崎一徳、足尾銅山の生産量、足尾銅山の鉱床などを
付け加えました。
さらに合本では、小野崎氏の序文、目次、井上の後書き
が付け加え、モノクロの写真の入った表紙を付けました。
B5版で52ページで、販売価格は840円(本体800円
+消費税40円)です。
地学研究の発行元、京都の(財)益富地学会館様(http://www.masutomi.or.jp/)、
神田神保町のすずらん通りにある地方出版物専門の書店・書肆アクセス様
(http://www.bekkoame.ne.jp/~much/access/shop/ 〒101-0051 千代田区
神田神保町1−15 電話03−3291−8474
FAX 03−3294−8065 電子メール access@mx6.mesh.ne.jp)
で販売をお願いしています。
いずれも、通販での取扱いもしていただけます。
発行部数が少ないため、入手はお早めに。
pentahydroborite@yahoo.co.jp
初めまして、AZUMA様
>古代、特に1世紀から7世紀ごろに興味を持っています
文献記録の無い時代ですから考古学の領域になるのでしょうか。
以下ほとんどお役に立っていないとは思いますがご参考まで。
確かな文献記録としては『日本書紀』にある天武天皇3年(674)銀初出が
最古の金属鉱業記録のようです。
これ以降になると『続日本紀』に多少出てきますが、
『日本鉱業史要』西尾ケイ(金+圭)次郎が参考になると思います。
飛鳥資料館
http://www.asukanet.gr.jp/
の「あすか会議室」あたりでお問い合わせされては如何でしょう。ここには
飛鳥の工房
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/koubou/welcome.html
というのも掲載されています。
初めましてAZUMAと申します。
このサイトに初めて投稿させて貰います。
鉱物の歴史的資料に関して、どなたか教えてください。
鉱物、特に金。銀。水銀とうに関しての
@紀元以降今日までのの推定発掘量のデータ(簡単な根拠)
A1世紀から7世紀ごろの鉱山(どこで取れていたか)
古代、特に1世紀から7世紀ごろに興味を持っています
本、サイトの紹介でもかまいません
よろしくお願いします
軍艦島の事、書き込み有り難う御座います。
私も以前に仕事で度々福岡に行くことがあり、お付き合いしたお客様が軍艦島の出身と云う
ことで、写真集やTVの放映などで、荒廃した島の様子を見るにつけ感慨を懐いておりました。
私は相変わらず、佐渡に憧れながら、年に何度かの渡海を夢見ながら、朝から駅員の方が
短銃の犠牲になる様な渋谷の地で働いております。
今はどうか判りませんが、二十年ぐらい前には、福岡周辺にも沢山のボタ山があり、夕日に
そのシルエットが浮かんだり、炭坑のための廃線の錆びた線路が野原に埋まっていたり、と
炭坑最盛期を忍ばせるものが沢山あった様です。
また、現在の炭坑遺跡の事など書き込んで下さい。宜しくお願い致します。
風間様、久々に投稿させていただきます。
私、個人的な事情から関東をはなれ実家の長崎県へUターンしました。松尾や日立、その他それまで訪れることを望みながらもついに機会を持つこともできずに訪ねそびれてしまった鉱山がいくつもあること、そしてもう一度、佐渡の山中を、古い時代の相川鉱山の痕跡をもとめてカメラをもって分け入ることを果たせなかったこと、今、関東を離れて心残りがございます。
転居後、生活のため鉱山どころではなくなってしまったのですが、私の住む長崎県はご存知のとうりかっては明治期以降発展した海底炭鉱が県内の様々な場所で採掘がなされていた県です。
今日これらの炭鉱は廃墟ブームで寧ろ有名になって、今夏7月から、軍艦島を船でクルーズできる観光船も就航することになり、こういったなんのこともない商業ベースの観光船でさえ、生活に忙殺されている私には幾ばくかの慰みを齎してくれる契機になりそうで、こうした鉱山にかかわりのある土地に住めるというのは鉱山を手じかに見れるという点において、なにかしらのささやかな楽しみもあろうかと思われます。
このサイトは金属鉱山を取り扱っていらっしゃるので炭鉱はお門違いになるのかもしれませんが、私には他に話題も無いので県内の炭鉱について多少発言させていただくぐらいになりそうです。今後ご容赦願います。
ちなみにさきほど書きました観光船は軍艦島を海上から周遊するもので上陸はしません。上陸は禁じられていますが、海釣りの釣り船は釣り人をわたしており、その船で廃墟目当てに上陸している人も結構いるみたいです。しかし閉山後幾星霜、見るべき廃墟も台風など自然条件によって相当荒廃しているように思われます。
城春奈さん、こんにちは
らこつって何個・ は、頭のぽちぽち、羅ほつの間違いですか?
それとも、別のぽちぽち?、大仏さんの事はとんと疎くてすいません。
この辺り解説をお願いします。
奈良の大仏のらこつって何個・
佐渡ウォッチャー風間進太郎の昨今の佐渡
佐渡は四月の下旬に市長選挙があり、市議会議員の選出も終えている
しかし、市長選で二候補の得票が結構僅差だったため、そのしこりから
議会がまとまらず、助役も収入役も決まっていない。
実質、行政不在の状態である
歴史好きの私が直接関係を持つのは、各地の教育委員会や文書館、博物館などであるが
特になんの変化もなく、以前のままの対応である
中には「新たな指示がない」などとほざく官吏などもいるが、大抵は
「新たな指示あるまで、現状維持」というところか?
元々、佐渡の官衛は近世から相川町にあった、金鉱の島であったから仕方なかった、
処が相川は島の奥地、島民にとっては役場が山の中にあるのは不便この上ない
でもガマンしていた。
島の玄関は小木と云う島最南端の港、小木から相川までが、島の南側の海辺を通る
メインストリートであり、他の地域はやはり奥地であった。
明治のご一新の時に奥平と云う行政官がやってきて、相川が島の役場なんて
とんでもない、島の真ん中に移せ・・と、今佐渡高校がある丘の上に移した
しかし、相川勢の永年培った中央への影響力は強く、なんだかんだと
行政の中心は相川に戻ってしまった。
明治に入ると佐渡は佐渡縣になったり、相川縣になったりの試行錯誤を繰り返す
が、新潟縣の管轄に入り、佐渡郡となる。
この間官衛を移転する運動も盛んに行われたが、はたせず
佐渡郡の郡役所も相川の奉行所跡に出来る、
其後に郡と云う行政組織が廃止になり
縣>市町村と云う直接行政になった時、佐渡は両津市ひとつと十数個の町になった
すなわち、島内の各市町村が直接本土の新潟縣に従う形となって久しかった。
今回、一島一市となった事で、ご一新から果たせなかった官衛移転(佐渡市の役場は金井
という島の真ん中)が果たされた事になる
今では、新潟との距離の関係から以前は奥地だった両津が島の玄関になり
直江津や関西との連絡では便利だった小木は衰退し、島の表裏が反転してしまった
未だに、近世を引きずっている島、それでも変化する佐渡、
助役も収入役も決まらない背景にも近世の亡霊が影響しているのかもしれない。
そこで、うちのお祖母ちゃんが昔云ってた「島のキャッチフレーズ」をご披露
「一度おいでよ、日本海のハワイ」??
>歴史とち違う話題になってますが,,sysopさん..
気にしないで下さい。とっても大らかなフォーラムですから・・
それにしても
>茶髪の国産品
は避けたいものですですが、やはり日本国のため、我慢しよう。
食料などでの国産主義の限界から、この国はいろいろな物資の国産依存を放棄して久しいですが、これやっぱり反省すべき、
国産支援のために、田圃に補助金蒔くのも
困りますが、
>中国人アルバイトはみんな帰国
した隙に、せめてサービス業くらいは、国人で固めましょうよ。
鞍馬天狗の子分は「杉作」、青森の霊場は「恐山」くらい、知っている
日本人に、日本の在留仕事くらいは取り返しましょう。
なに、茶髪の国産品は杉作も恐山も知らないって・・・
ムー、困った
歴史とち違う話題になってますが,,sysopさん..
貿易がらみでは、意外な産業、斜陽とさえ、かつて言われてた造船や鉄鋼が
実は、ごっつうモオかっているとか。
でも、人民元が切りあがったら、中国人アルバイトはみんな帰国してしまう
のかも。あとは茶髪の国産品でなんとかしなければならなくなるのかもとか..
経済関係・特に海運関係のサイトをみると、中国で鉄鋼生産が増え、
鉄鉱石と石炭の輸入が大幅に増加したのでこれらが値上がりしたようです。
それだけでなく、同国の大豆輸入量の増加もあり、海上運賃も極端に高く
なっているそうです。
P&Hさん、今晩は
自分に調べりゃいいのに、すぐひとに聞く癖がついてしまいました。
1,電力生産、2,粗鋼生産,3,化学用一酸化炭素源料
確かに火力発電所は、石炭を燃やしている感じがしますね。
電気万能の時代のような気がしていますが、電気って
エネルギーの中間媒体としては決して高率の善いものじゃない
気がします。
冷暖房のクーラーなんて何であんなもので暖を取る様になったんで
しょう??
とか云いながら、家族で食器洗い機を見に量販電気店にいっちゃいました。
手で洗えっての・・まったく
私自身は、只の町の電気工なので門外漢なんですが、国内では
1,電力生産、2,粗鋼生産,3,化学用一酸化炭素源料と
いう所だったと思います。余談ですが、都市ガスは現在では
天然ガス(LNG)を原料に使用するので、海外と違って日本国内では
石炭から生産していないようです。この切り替えはたしか私の
子供時分で、昭和50年前後だったとおもいます。新聞記事で
ガス自殺しようとして失敗、爆発して訴えられた,,などという
記事の年齢が、私より上ぐらいだと、フムフムなどと変に関心
してしまいます。
あと、専門の方がウンチクあれば如何でしょうか?
P&Hさん、こんばんは
もうひとつ、教えて下さい。
現在、石炭の需要の主なものは何なのでしょう。
だるまストーブで暖を取ることではないと思う
のですが・・・
中国炭や、南洋炭の値上がりは、日経の記事だと中国の輸出量が15%削減され、
世界的に原料インフレが起こっているから,,のようです。でも、中国の石炭生産や
輸出量が低下するのは7−8年前から言われていた事ですし、要するに日本側の交渉が
国内の景気見通しが不透明だったため数年前から弱腰となり、それに急激な需要増加
が追い討ちをかけて対応不能になった,,という所でしょう。昔からこの国のォ偉い
さんは頼りになりませんからね。
やはり某紙のウケウリですが、日経故紙ダンボールはやはり数年前から中国に輸出
されていて、敦賀地方の工場などはずっとフル生産のようです。輸出梱包用
高強度品の中国国内生産設備増加が需要増に追いつかないからだそうです。
P&Hさんこんばんは
何故、石炭が値上がり、なのでしょう?
近頃、ダンボールを廃品に出すと、お金くれるそうですね。
一説によると中国が自国製品輸出の時の梱包材に困っているから・・
石炭値上がりは何か怖い感じがしますね、不可解で。
ここに書いて良いのかどうかですが、昨日、日経を見たら、海外炭が
70%〜100%も値上がりするそうな。
北海道なんかで稼行中の所なんか久々に潤うのでしょうかね?
相変わらず、活発な動きですね。
彼の国とは別に、国内探索のページも開設して下さい。
さしあたり、本サイト画像掲示板の写真載せて下さい。
風間
皆様お久しぶりです。のりまきです。
26日から2泊3日で、茨城県北部からいわき市にかけて小旅行をしてきました。
いわき市では、『みろく沢炭鉱資料館』という、私設の小さいながらも内容が詰まった炭鉱資料館を見学しました。
炭鉱で使われたトロ(炭車)が復元されていたり、炭鉱の古い写真や館長手書きの炭鉱の見取り図など、博物館自体も楽しめます。
館長がおられれば、館長さんのお話も必聴です!ヤマに対する熱い思いを感じることができます。
また、資料館近くには石炭の露頭もあります。皆さん、近くを通りかかられるときはぜひ訪問してみてください!!
場所的には国宝:白水阿弥陀堂の近くです。料金は無料、年中無休だそうです。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
びんた切れの水晶さん、おはよう御座います。
私事ですが、私の叔父は街の写真屋さんなのですが、デジタルカメラの普及で40%売上げ減と嘆いて、店で他の物も売るようになり、雑貨屋さんになってしまいました。
この間「どうするべー」と云う叔父に、
全國写真材料業組合でTV−CM打てよ、テーマは猿の惑星のパクリ、
猿人が砂の中から人間家族の集合写真を見付けて喜ぶが、
次ぎにデジタメのメモリー拾ってポイと捨てて立ち去る、
ナレーションは「貴方の写真、子孫に残せますか?」
私は計算機のプログラム開発屋ですが、電子はすべて「泡沫・うたかた」です。
何時でも、紙に出来る・・と思うのが間違いで忘れられるのが現実です。
巨大水星が地球を横切り、すべての磁気媒体のデータが消え去るというSFでも
書いて、みんなの電子媒体信仰を無くさないとダメですねえ、などと
書いている文章は、うたかたのインターネットの上
風間さま
古い資料の保存は,なかなか難しいですね.私の勤務先の地方の出先でも,最近古くて貴重な地震の波形の記録が階段の裏あたりから出てきたという話を目にしました.今のところ,DVDとかCD-ROMとかの保存性,またそれを読み出すデバイスがどの程度作り続けられるかわからないのが厳しいです.
紙の記録だと,わりと何とかなるのですが,初期のオープンリールに書き込まれた地震波形は,いかんともしがたかったりして,捨てざろう得なかったです.
そこら辺を考えると,記録をできるだけ文字化・画像化して,本とかCD-ROMとか複数のデバイスにコピーし配布する他,源資料を適切なところで保存するのが一番いいのですが,お金が….
川上文書の事が出てきたので一言
皆さんご存じの様に佐渡は3月1日を以て、全島佐渡市となり行政の統合が行われました。
これまでは、両津市と無数の町村からなる郡部からなり、それぞれ町村役場による行政と
それに連なる教育委員会などの統制下に、郷土資料館や博物館、文書館などが町村別に運営
され独自性を持っておりました。
また、ぬしの様な館主が頑固に史料を管理してきました。
もはやコストの面でこれが出来ない時代となった。佐渡の史料文書も、そのうちどこかに
集められ管理されるのだと思います。(市の博物文書館構想)
しかし今、行政再編の中で、差し迫った日々の暮らしとはやや離れた前述の施設などは
再編が後回しにされ、
とは云え以前の形態での運営も行われず、混沌とした状態にあると思われます。
一時的な不便など何でもないのですが、この様な過渡期に大切な史料が散逸しないか心配
です。それでなくても文書は、虫に喰われ、風化し、酸化が進み、閲覧者によって奪取され、
消耗して行くものです。
今全國で地方自治体の統合が行われております。
この過渡期に、日本のあちこちで後世に残すべき、
史料達が散逸しないよう願いたいものです。 風間進太郎
tepeさん今晩は
このフォーラムのコメント296に風間が書いた
>只、佐渡相川の水金沢や入川の名が、金の精錬に水銀を使用する様になった近世以前、
>平安の頃からのものかどうかには言及していない
>また、0,06%の濃度が、近世に行われた金精錬の影響によるものではないか?
>については検討を要する
この辺りのコメントは私の佐渡の丹生神話物語にビンタ切れの水晶さんが
つきあってくれたものですが、
上記のコメントを書いていて自分で気になっていました。
丹生について再度書くのは避けますが、入川は相川の鉱山地帯の裏山とも云える場所で
相川の様に山が切り立っている場所に比べ谷あいの懐が深く、要は水を得やすい場所と
云えます。この地の地中水銀濃度が異常に高い(一桁違う)のは、やはり相川の金銀山の
アマルガム法による製錬のパイロットプラントがこの谷合にあったのではないでしょうか?
この「にゅうかわ」と云う地名も、にゅ=丹=水銀、と云うことで、もろ水銀川と云う意味
ではなかったかと、勝手に推測しています。
近代に入っても、この地域は相川で採掘した鉱石を製錬する場所であったと思われます。
風間さん、どうもありがとうございます。
図書館で「佐渡金銀山史話」を見てきました。閉館まで時間がなかったので斜め読みですが。
アマルガム法についての内容は小葉田博士の研究論文の紹介でしたね。
南米で使用していた方法と同じと解釈されているようで、この点はなによりでした。
ただ、技術的な内容が無かったのは残念ですが。
家康もPatio法を知っていたという話は、ちょっと興味をひかれました。
Patio法は「水銀ながし」よりももう一つの呼び方「水銀床屋」のほうが、より実態を
表しているように思います。語呂としては今ひとつですが。
しかし、何で銀製錬法が金の製錬の話にすり替ったのか。
何にせよモヤモヤの一つが解消されたので、感謝です。
佐渡金銀史話によると
博士は川上家の文書を借り受けて研究し、その論文を
「日本鉱業史上に及ぼせる西洋技術についての新発見」と題して
昭和二十七年十二月号の「日本歴史」に発表した。
とのことなので、どなたか國会図書館ででも探して見て下さい。
自分で探せって・・今ちょっと多忙でして、
佐渡の金銀山について研究した書物は前述の田中圭一先生のものなどいろいろあるが
表題の本はその白眉である。
麓氏は三菱に勤務されていた方なので近代の採掘手法などの記述は具体的であり、
この本を読めばすべて判る的な本である。
複刻版も出ており、古書価格も安いので購読を勧めたい。
元々十七世紀頃に日本が輸入していた水銀の量は確認されており、いずれ金銀の精錬に使用
されていた事は推測されるが、佐渡での活用については不明であった。
処が、昭和二十六年にこの本の著者麓氏と小葉田博士を地元の史家橘法老氏(このフォーラムの以前のコメントを参照のこと)が案内し、加茂村の川上家の文書を閲覧したところ、史料の中に
アマルガム法による精錬の記録があったと言う。
「水銀なかし勘定致申候・・」の文章は、水銀による精錬を最初に試みた報告書とされており、慶長十二年頃と推定されている
アマルガム法は有効ではあったが、水銀の調達限界から全面採用はされず、
全体には安価で安定供給が計れる鉛によったこの本では推定している。
風間さん、びんた切れの水晶さん、ありがとうございます。
大久保長安は佐渡金山奉行より前に石見銀山の初代奉行になっていますから、灰吹法は
知っていたはずです。
記事302のソース
http://www.niigata-nippo.co.jp/112/aikbk1.html
98年1月29日ー99年10月21日掲載分の相川町の話題
◎川上家文書を一般公開へ(99/3/18)
「佐州銀山諸御直山鍛冶炭渡帳」の記事?
・・・内容は金銀山で使われた炭やろうそくなどの数量を記した帳簿や、水銀を使った精錬法
などの技術的な記述、さらに盗みを働いた者を張り付けにした記録など多岐にわたり、・・・
小葉田教授がこの文献を見逃しているとも思えないのですが、「水銀を使った精錬法などの技術的な記述」
に惹かれます。何とか内容を入手する方法はないものかと。。。
風間さん,tepeさん,ありがとうございます.
文書が残っているのですね.木葉田さんの本は,古本屋でなかなか手が出ないので….
で,一つ疑問なんですが,大久保長安は,灰吹き法を知っていたのでしょうか.私は,「別子開坑250年史話」(題名はうろ覚え,現物は人に貸している)なる本を所有しており,戦国時代末期あたりに住友家は「南蛮絞り吹き」と称する鉛を使い,金銀を銅から取り出す秘法を知っていたそうです.灰吹き法も下に書いたとおり,秘法だったようです.大久保長安が,灰吹き法を知っていれば,もっと生産量を増やすことができたのではと私は思うのです.
鉱石を砕いて粉にし,ネコ流しをして金を集めるのが一番原始的な鉱石の処理の仕方です.このとき,ネコのさきに水銀を使うと,細かな金の収率が高くなるそうです(砂金でも,この方法が用いられるそうです).水を沢山要したというところをみると,大久保長安はこのやり方で金の収率を高めたのかな?
慶長年間に大久保長安によって発展した金銀鉱山はアマルガム精錬による・・と物の本には
書かれている、小葉田教授の研究によると、寛永頃には水銀三万斤程度が輸入され
金銀の精錬に使われていたらしい。
佐渡では長い間、金銀精錬に水銀が使われた証拠は見つかっていなかったが、佐渡旧家の文書
の中に「床屋水銀なかし・・」の文章が見つかったり、地名として「水金町」が残って
いたりして、佐渡でのアマルガム精錬が(あった事が)立証されてきている
(田中圭一著、佐渡金銀山の歴史的研究、刀水書房版)の拾い読みから・・
この本の外、麓三郎著の「佐渡金銀山史話」でも、長安によるアマルガム精錬の試みと
これを証拠立てる史料の発見について書かれている
但し、佐渡での精錬に日常的に使われたのではなく、試みられていたという程度かも
しれない、この辺りはこれらの本の論調から当たりを付けて戴きたい
アマルガム精錬には多量の水が必要であり、佐渡相川での精錬では異常に遠い水源から
水を引いていたことなどが、これらの本では述べられている。
ぜんぜん関係ないけど、コメント296辺りの「丹生の国佐渡」についてもご参照あれ
びんた切れの水晶さん、こんばんは。
大久保長安が導入したといわれる混汞法は、16世紀に南米で使用された混汞法が宣教師
から伝わったのではないかと推測しています。
この製錬法は銀鉱石に対して開発されたもので、伝えられるように金に対するものでは
ないので単なる推測ですが。
佐渡は銀の産高も大きかったので同法は十分実用になったのではないかと思っています。
怪しい記憶ですが、日本は中国から明代に水銀を輸入していたはずで、資源量に問題があった
ことは確かでしょう。
tepeさん,こんにちは.
ご指摘のホームページ,読みました.確かに,水銀を使用して,土肥金山を盛業にしたとありますね.彼がもともと活躍した,武田の所領の金山は,水銀を用いた精錬に向くタイプです.規模は小さいけど金粒が大きい鉱山が多いのです.また,砂金の採取でも,上手に水銀を使うと収率を上げることができるそうです.
ただ,土肥金山は,はっきりいって,水銀が有効なタイプの鉱山ではありません.ただ,地表付近は,天水により鉱石が酸化されているので,その鉱石には水銀が有効だった可能性があります.鉱山が急速に衰退したのと,このことは確かに合致します.でも,銀が多い場合,鉱石を粉砕し,予め塩と共に焼いて銀分を塩化銀にしないと,金銀を効率よく回収できないそうです.
ですので,鉛を使った灰吹き法の可能性もあると思います.戦国時代のはじめ頃には,大森銀山では神谷宗丹が灰吹き法で精錬していたそうで,遺跡でもこれに関したものが出るそうですが,技術は秘密にされて伝わらなかったそうです.住友の文書でも,鉛を使って銅から金・銀を吹き分ける南蛮絞り吹きが江戸時代の初期には行われていたそうですが,それも秘伝ということで,他には伝わらなかったそうです.つまり,秘法は混汞法ではなく,灰吹き法の可能性もあると思います.
先に紹介した本にも,水銀を用いた精錬は,16世紀半ばから,メキシコとか新大陸で使用されるようになり,ヨーロッパで用いられるようになるのは17世紀の半ばからです.日本では,明治に入って伝えられたとあります.
どうして,混汞法が用いられた可能性が少ないのではと私が考えるのは,日本の水銀鉱山の状況にあります.日本の水銀は,北海道を除くと,伊勢とか奈良付近に大きな鉱山があります.こうした鉱山は,奈良時代から採掘され,戦国時代にはすでに枯渇していました.その点,鉛の方が手に入り易いですし,場合によっては金銀と一緒に出る場合もあります.銀を多く含む方鉛鉱を銀鉱石として採掘することはよくあります.もっとも,金を多く含む銅鉱石を製錬して,金を回収することも普通のことです.
びんた切れの水晶さん
情報ありがとうございます。
ここhttp://www.toimarine.co.jp/kinzan/history2.htmlを見ると土肥金山でも混汞法を
採用していたようにも読めますね。
実用性の有無はあったのかも知れませんが、
http://www.rokueikensetu.com/hatioji/rekisi/nagayasu.shtml
などに見られるように産金量の増大に混汞法が寄与したように習った記憶が・・・
何かの本で、混汞法が廃れたのは水銀の供給に問題があったからと書かれていたので
実用化されていたのかと思っていました。
相川町のサイトだったと思いますが、平成十一年度事業計画として相川町水金の水銀
精錬所跡の調査が上がっていましたので、そこそこには実用化されていたのかも知れません。「鉄や油、水銀、生糸、薪、炭、塩などは敦賀から回送され」という一文もあり
ましたし。
あと、石見銀山にも慶長12年に同法の(採用を)指示していたようです。こちらで
はその後どうなったかという記録は見当たりませんが。
引き続き情報を求めていますので、よろしくお願いします。
tepeさん,
手元に「金礦と金礦床」という本があるのですが,佐渡のような銀と硫化物が多い金鉱床(幼脈というのですが)には,混汞法は不向きとあります.また,この本には,1771年の佐渡の精錬の手順が載っているのですが,鉛を使った灰吹き法しか用いられていません.このため,おそらく混汞法は用いられたとしても試験程度で,収率が悪く実用には使われなかったのではと思います.
大久保長安は,伊豆の金山も開発しましたよね.伊豆以外の静岡の金山は,混汞法に向いたタイプの鉱山です.そちらで,実用したというなら,わからなくありません.
はじめまして.
早速で恐縮ですが、大久保長安が導入した水銀法についてご存知のことがあれば、何なりと
お教え頂けないでしょうか.水銀法の具体的な内容を知りたいのですが.
web検索したところ,相川町郷土博物館収蔵の古文書「川上家文書」の中の「佐州銀山諸御直山鍛冶炭渡帳」
に水銀を使った精錬法などの技術的な記述があるようですが,佐渡まで調べに出向くほど
には気力(お金)がありません(^ ^;A
何卒よろしくお願いします.
びんた切れの水晶さん、丹生の話につきあって頂き有り難う御座います。
佐渡・猿八山の人の「ここはタダの僻地じやない!!」
と云う気持ちに誘われて、コメント299の最後に「佐渡は邪馬台国だった」と云う
ガセ説まで行ってしまいました。
邪馬台国の在処についての本は幾つか読みましたが、
流石に「邪馬台国は佐渡にあった」と云う説は見たことがありません。
大和説も、九州の中でくるくる回り日田半島辺りに持って行く説も
詠めばそれぞれに「成る程」と思いますから、
無理矢理佐渡までの道のりを「水行一ヶ月」
などと持って行くことも出来るかも知れません。
そしたら、佐渡の山の中から「三角縁神獣鏡」か何か出てきちゃったりして・・
荒唐無稽過ぎて、なんかその気になってきちゃいました。
風間
遡って掲示板を読むと,「近世に金の精錬に水銀が使われるようになる前に」とちゃんと書いてありました.
神社の格の問題はあまりよく知らない(火山が噴火すると,神社の格が上がるのは知っているのですが)のですが,こうした神社はどのくらいあるのでしょう?私なぞついつい,他にこうした例はあるのかとか考えてしまいます.また,佐渡は,日本海の海運の要衝であり(太平洋側より,日本海は波が少なく最初に日本海側の航路が開けたそうですね),島流しの島でもあり,早い時期から都との繋がりがあって,どうなのかなと思ってしまいます.
「丹生」という集団が,鉱山師の集団であれば,西三川の砂金鉱山もあって,小規模な砂金鉱床を掘ったというのもありそうです.もちろん,辰砂でもいいのですが.この神社の近くの沢にいって,椀掛けすれば,いろいろわかるかもしれません.
びんた切れの水晶さん、こんばんは
私はこれまで丹生(にふ)とか、昔、丹生族などと云う水銀探しの渡り職人的な部族が居た
なんて話はまったく知りませんで、松田寿男博士の「丹生の研究」の序語、総論と佐渡の部分を
読んだだけですので、素人の意見でしかない(当たり前)のですが、読んだ範囲では
この松田寿男氏は丹生一筋の研究家で、全國の丹生の分布を調べ挙げ、返す刀的に
(ハイテンションで)佐渡の丹生に筆が及んだ事は否めないと思います。
私が知りたかったのも、水銀鉱床の存在以外のどんな条件により地中水銀濃度が高まる
ことがあるのか?で、びんた切れの水晶さんの
「良質な金属鉱床の近くでは水銀濃度が高くなることがある」
と云う指摘には「やっぱりそうか!」と思います。
この辺りの論述が「丹生の研究」のコピー部分には無く、本全部を読まないと軽々には
論議出来ないので、この本を探しているのですが、都の中央図書館にある程度で、古書店
ネット購入などと云う安易な手段では入手出来ないようです。
しかし、丹生を調べている人は居るのですね、検索すると沢山のH/Pがあります。
只、びんた切れの水晶さんが少し勘違いされているかな?と思うのは、この佐渡の丹生の
論述そのものは、近世になって金の選鉱に使用された水銀とは関係なく、いわば
「佐渡には金の文化のもっとズーと以前に丹生の文化があった・・」
的な議論と思われます。
ですから、水銀の地中濃度だけを比定の拠り所とする博士の論は危険で、
ご指摘のあった「他の理由でも地中濃度が高い場合があるよ」で
「佐渡に丹生」は崩れる譯です。
しかし、コメント296でも述べた、
>佐渡猿八地区は佐渡の中でも最も僻地であり、よりによって延喜式に名を連ねる神社
が中世には人も住まなかったと思われる猿八にある理由は、何かの拠点(氏の説では丹生)
であったことしか考えられない・・
という部分には私も謎と魅力を感じます。
猿八はホントに何もない処で、猿八の方には悪いですけど、
佐渡でも大抵の人は一生行かない処です。
ここに「延喜式に名を連ねる神社」があることには、何らかの理由がなくてはならないとは
思われます。
邪馬台国は佐渡だった・・でも良いのですが。
随分前に読んだ本なので記憶が曖昧なのですが,化学探鉱で水銀は水銀鉱床だけでなく金・銀・銅などのよい指標であるとありました.ですので,水銀の濃度が高いといっても,一概に水銀鉱床の存在を示すものではないと思います.
それから,金の選鉱の場合,高価な水銀を使うよりどこにでも手に入る水を使ったのだと思います.砂金の選鉱でも,水だけで効率よく集めることができます.金鉱石でも,灰吹き法が用いられる前は,砕いてネコ流しで金を集めていたそうです.金鉱床には,しばしば方鉛鉱が伴いますし,水銀より安価だったので,灰吹き法の方が先に普及したのではないかと思います.方鉛鉱に銀が多く含まれる場合もありますし.
コメント296に出てくる越敷神社についての記事が出ています。
http://www.genbu.net/data/sado/osiki_title.htm
ご覧下さい。 他のH/Pにリンクされていた神社サイトです。
びんた切れの水晶さん、こんばんは
295のコメント頂きまして、再度、松田寿男の「丹生の研究」の佐渡に関する部分を読み直して
みましたので、概略をまとめてみますね。
氏の解説
丹、朱砂(硫化水銀)は古代から塗料、染料、薬用、金のメッキ処理に使われ貴重であった
水銀の国産は縄文時代からあったが、平安以後中国からの輸入が主力となって国産は衰退した
この衰退期以前の水銀の産業は国内でこの仕事に
専従する人々が移住して鉱脈を見付けては採掘>移住という形で行われていた
この古代採掘地が丹生とこれに類する地名、神社の名前などから類推できる
佐渡、猿八を丹生の出産地のひとつと比定する理由
越敷神社の存在>この神社は「延喜式」神名帳に名が見える、「おしき」神社と云うこの名前
の越は遠の誤記とする例が中世文献があるので「おにふ」と読むことが考えられ、
丹生との関係が推測される
また、猿八も遠入の経年誤記で「おにふ」と云う地名だったのではないか?
[推測ばかりですね]
氏の研究手法は、上記の様な地名、古神社名から類推した箇所の地中水銀濃度を測定して
比定すると云うやり方です。
この本によると、猿八の試料の水銀は、0,0025%で、この地を水銀の産地とする
適格性を示している・・と云う
氏は次ぎに佐渡に丹の例として、佐渡相川の水金沢、入川の名を挙げ、入川の地中試料では
0,06%の濃度を示していた、としている
地中の水銀濃度と云うものは、非産地では0,0001%程度であり、周囲に水銀鉱床
があると、0,001%以上を示すと云う
只、佐渡相川の水金沢や入川の名が、金の精錬に水銀を使用する様になった近世以前、
平安の頃からのものかどうかには言及していない
また、0,06%の濃度が、近世に行われた金精錬の影響によるものではないか?
については検討を要する
松田氏は、猿八は佐渡の中でも最も僻地であり、よりによって延喜式に名を連ねる神社
が中世には人も住まなかったと思われる猿八にある理由は、何かの拠点(氏の説では丹生)
であったことしか考えられない・・と云う論旨です。
現在も佐渡の僻地である猿八に住む人にとって、この説はとても魅力的に感じられる
と思われます。
風間さま
佐渡などグリーンタフと呼ばれる堆積岩に伴う鉱脈鉱床の場合,辰砂はあまり出ないようです.鉛とか亜鉛は伴うのですが,辰砂とか輝安鉱のように金とか銀より低温で形成される鉱物は,ほとんど伴わないのです.
さらに,金の精錬に水銀を使うようになったのは,鉛より後と記憶しています.鉛は,戦国時代に灰吹き法として伝わり,金銀の精錬に使われるようになりました.
もっとも,水銀は,金メッキのためには,奈良の大仏の頃から使われたそうですが.
少し前に、画像掲示板が寂しいので、お鄙様の写真をご覧に入れたが、
この振り込み用紙と一緒に松田寿男著の「丹生の研究」の一部コピーが送られて来た。
猿八の山中でお鄙様を作っている西橋さんは風間のH/Pを見て
鑛山に興味があることを知り、教えてくれたものらしい。
この本の事は私が知らないだけで各位はご存じと思うが、この本の中に佐渡の猿八が
丹/朱砂(硫化水銀)の産地だったのではないか、と云う説が載っている
すなわち、猿八は遠入の誤記であり、ヲニフと読む地名もこの山深い場所にあったと
延喜式に書かれている越敷神社も丹の出産地を示している云う説である。
松田寿男氏は故人だが丹生の鑛山については一任者・権威である。
この本によると、猿八の地中からはカナリ高濃度の水銀が検出されるので、
丹生の産地であったことはかなり確度が高いとのことである、
佐渡のその他の地域、例えば入川なども、ニフの発音と水銀濃度から
水銀鑛山があったとしている。
かざま
相川にも水金沢と云う川があるが、金精錬のために使用した水銀に由来するのではなく、
水銀鑛山があったことからかもしれない。
丹と云えば、昔は金よりも高価なものであり、佐渡は金も丹も出る山の中から発達した島
かもしれない。
この丹生の事は、佐渡の歴史書には書かれていない。
お雛様と一緒に新たな興味が届くものである。homepage2.nifty.com/butetu/
鉱山ニュースにも書きましたがこちらにも投稿させていただきます。
今年1月に東京の鉱物の同好会・鉱物同志会の会誌「水晶」の最新号、16号「足尾銅山特集号」が発行されました。
足尾銅山特集の記事は「足尾銅山の歴史」、「古河市兵衛」、「足尾銅山の地質鉱床」、「足尾銅山の鉱物」、「足尾と文学」、「足尾の銅鉱床の成因について」、「足尾銅山採集会に参加して」「足尾鉱山産のビスマス鉱物」、「栃木県足尾鉱山産キャノン石」、「足尾のお足」、「足尾銅山の思い出と標本整理」、「本と万博と足尾」、「足尾鉱山産スコロド石について」です。全体は78ページで51ページは足尾銅山特集の記事です。
足尾銅山特集以外に、甲武信鉱山のイゾクレーク鉱、秩父鉱山産の炭酸青針銅鉱、日光鉱山産の斜開銅鉱、長崎県生月島の沸石、オーストラリアの鉱物などが紹介されています。 1ページがカラーページ。
「水晶」は京都の益富地学会館様と東京・紀伊国屋書店新宿本店1階の東京サイエンス様の常設ショールームにおいて委託販売をお願いしています。
風間さんありがとうございます。探したい会社は、順安砂金株式会社マリナワ事務所というところです。マレーシアのイポーのそばのマリナワ(Malim Nawar)というところにあったみたいです。
のりまきです。こんにちは。
皆さん濃い探究を続けていらっしゃるようですね!今後の経過が楽しみです。
風間さんの泥人形のお内裏様、楽しみですね〜〜
こちらの現況ですが(笑)。朝鮮金剛山は第一次世界大戦前後、タングステンの鉱山が山中あちらこちらで採掘されていたようで、一種の『タングステンラッシュ』のような様子であったらしいことがわかってきました。
風間さんが書き込まれていた『旧財閥系の資料館』、今度行ってみたいと思います。
それにしても……第一次世界大戦頃の金剛山の多くは人里離れた山中……そんな山中で働いている男たちのところへ、時々『酒を売りに来る』女性がいたとやら……詳細が語られていないので『はは〜ん』といった感じですが……こんな裏面史も面白そうです!www.norihuto.com/kumgangsan.htm
佐渡の猿八地区は小佐渡の山の中であり、佐渡でも一番辺鄙な場所とされ、江戸時代には夏が寒冷だと餓死者が出たりした処、
此処も今は小学校廃校の後に早稲田大学の先生が演劇関係の文献を集めた図書館があり(東京の今後の震災に備えている?)、演劇文化の拠点となっている。
この猿八に、文弥人形と云う佐渡に古くから伝わる人形芝居の人形遣いを継承をしつつ、泥人形を作っている人が居るが(佐渡の泥人形については風間のH/P参照)http://homepage2.nifty.com/butetu/
この人から年賀状を貰ったが、そこに、3月1日から、住居表示が
新潟縣佐渡郡畑野町猿八 > 新潟縣佐渡市猿八 となります、と書いてあった。
佐渡は現在、両津市と他の町村は佐渡郡の郡部となっているが、行政のスリム化なのか
島全体が佐渡市となり、個々の町名が省略されて小字名だけが残る(上の例)処もあるらしい。
一島一市の功罪は今後判ることだが、近世から近代に引き継いだ旧町村名が消えるて、
ふと見掛けた公民館の名前だけに残っていたなんて、ちょっと寂しい。
この猿八の人には、去年秋泥人形の内裏様の制作を頼んだ、お節句前には出来ると云っていたが、年賀状には、二月の初旬完成と書いてあった。
初春に内裏様を受け取りに島に渡る・・・ちょっと良いでしょう。
[288]を書いた後、マレーシアの錫を検索して見ましたが、私の想像以上に工業用金属一般の産出というより錫に特化した地域だったのですね、勉強になりました。
「ぼく」さんの今後の調査経過は、書き込みをして頂き、いろいろ教えて下さい。
宜しくお願いします。
去年、タイ・バンコクに仕事で行きましたら、街の土産物屋に錫細工品が並べてありました。
タイとマレーシヤは別の國ですが、あの辺り宝石と共に金属鉱山も沢山あったのでしょうか?
だから日本は南進した??
素人の意見で恐縮ですが、このスズ鉱山会社は日本の資本ですか?
そうなら、日本は許認可の國ですから、竹橋の国立文書館の内務省文書辺りに海外鉱山の採掘についても申請書などがあるのでは??
日本の資本なら資本家は日本人で、現地に居たのは支配人クラスと思いますから、当時の紳士録をめくれば、・・錫鉱山会社取締役・・などと役職の入った人物が載っているでしょう
紳士録の閲覧は国会はマイクロで大変見にくいので、広尾の東京都の図書館が良いと思います
すぐ出て来てコピーも格安です、海外鉱山に投資している資本家は、同様の他鉱山にも金を出しているでしようからそれも判りますよね。
後、日本資本で海外の鉱山採掘ですと、お金掛かりますから財閥系かも
当時の財閥で鉱山やってたのは三井、三菱ですが、上野広小路辺りに三菱の資料館があって三菱の鉱山関係の文献も収蔵していると思われます。他の旧財閥も同様の資料館がありますから、検討に値すると思います。
考えて見ると戦中のマレーシアなんぞは、軍需そのものですから、国家経営的であったと思われるので、国家+財閥による経営、とすると、最初の方の申請文書を漁る、紳士録から・・はダメですね。
その道の人を捜す、かなりレアな業界と思いますから、その事ならあの人・・と云う人が居るはず、でも8〜90歳にはなっていると思うので、探すなら時間がありません。
マレーシヤの大使館とかに訊くのも早いかも・・
マレーシアのmalim nawar(マリナワ)というところにスズ炭鉱があったのですが、戦時中にそこにあった会社の場所を調べるにはどうしたらいいでしょうか?詳細に教えて下さい。会社名は、
遅れましたがあけましておめでとうございます。のりまきです_(._.)_
本年も金剛山関連を中心として、古の廃鉱について私なりに調べていくと思います。皆様どうかよろしくお願いします。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
皆さん明けましておめでとう。
なんやかんやと正月も二日になって仕舞いました。
今年も、「日本の金属鉱山」が盛んとなり、箇所の古の鑛山に新たな
関心が注がれるよう祈念致します。
秋田魁新報社のサイト”さきがけon The WEB”で毎週金曜日に
連載企画の「秋田の鉱山盛衰記」が読めます。毎回一ヶ所を取り上げて、
18回まで連載中です。
http://www.sakigake.co.jp/
ぼくさん、今晩は
ご存じとは思いますが、國会図書館の文献検索は、てんで時間が掛かるので
ネットで検索した上で、足を運ばれた方が良いと思われます。
それから、海外鑛山の調査のやり方として、当時の投資新聞などを見るのも
参考になるかと思われます。戦前は公開も非公開も無く、お金持ちからお金を集めて会社を始める人が多かったらしく、これらのコンサルをしている新聞が沢山あったようです。
私の家は埼玉縣ですが、近代に資産家だった家の文書が、市の教育委員会
などに寄贈され「**家文書」などと名が付いて整理されていますが、
これらの家の当主は、この手の新聞を定期購読している例が多く赤鉛筆で印があったりして、投機の嗜好が判ったりします。
昭和初期のベンチャー企業は、電器(電球)鉄道、発電、鑛山であった様です。
のりまきさん、ありがとうございます。ついでにマレーシアのイポーというところに錫の産地があるのですが、ここにも順安砂金株式会社の事務所があったのですが、何か探す手かがりってありますかね〜。順安は、機会があったら国会図書館に行って調べてみます。ちなみにあったのは、昭和17年位だと思います。
平壌は平安南道になりますね…すいません_(._.)_www.norihuto.com/kumgangsan.htm
ぼくさん、こんばんは。
順安という地名から考えて、現在の北朝鮮の平壌市順安区域(日本で言えば平壌市順安区)にあった砂金鉱山のことなのでしょう。たしかに順安には砂金鉱山があるようですね。
日本植民地時代は平安北道になるのですが、私の手もとにある1932(昭和7)年の資料によるとそのような会社はなかったようです。
国立国会図書館に行くと、例えば1942(昭和17)年の朝鮮鉱区一覧などの参考文献がありますので、東京近くにお住まいならば国立国会図書館に行かれてみてはいかがでしょうか?www.norihuto.com/kumgangsan.htm
どなたかご存知でしたら、教えて下さい。戦時中、順安砂金株式会社という会社がありましたがご存知ありませんか。鉱山は現在の北朝鮮にあったようですが・・・。多分順安に。事務所は東京。あるいは、マレーシアのイポーにマリナワ事務所があったのですが、ご存知の方いらっしゃいましたら教えて下さい。
風間さんご紹介どうもありがとうございます。
今回は南北間の軍事境界線を越えてきました。
金剛山ではタングステン鉱山の跡らしきものがないか、
一応気をつけて見てみたのですが……わかりませんでした。
今の金剛山観光では、廃鉱跡を尋ねまわるなどまだまだ出来ません。
いつかはチャレンジしたいと思っていますが……www.norihuto.com/kumgangsan.htm
このフォーラムの数少ない常連寄稿者、のりまきさんはご存じのように
北朝鮮、金剛山の研究者ですが、
先週辺りまたまた韓国から陸路、金剛山をめざした様です。
で、もう無事帰国しています。
もちろん、奥さんのふとまきさんも同行したのですが、
詳しくは、氏のH/Pを参照して下さい。
茶屋四郎次郎様
はじめまして。
「道楽親父」さんが管理するHP↓「古絵葉書にみる懐かしき日本の鑛山」
の掲示板を見ると、少しはヒントになるかもしれません。
http://woodybell5.infoseek.livedoor.net/
私も月3回、鉱山絵葉書の入手状況を投稿しておりますが、
詳しいノウハウは、自分の首を絞めることになるので、
書いてませんけど。
鉱山絵葉書はなれないとなかなか手に入りません。ヤフー
オークションにも出品されていますが、最近は価格が高騰
して、私は手が出ません。
pentahydroborite@yahoo.co.jp
風間さんこんばんは。
イージーシーク、知りませんでした。
こちらはもっぱら『日本の古本屋』や、資料が集まる大阪の古本屋に行ったりする位です。
佐渡で『一夜干し烏賊からタラバカニ』ならば、金剛山だとどうなるのだろう??大阪の金剛山関連のものがひっかかってくるのかな??
あと、図書館も使うのですが……実は北海道大学の図書館によだれじゅるじゅるものの資料がありそうなのです。金剛山にあった鉱山が博覧会に出品した時のパンフレットなのですが……北海道は遠いなあ(笑)。
ふとまきが『わーい』と言っております(笑)。お言葉に甘えさせていただいて、埼玉に行く際にはふとまきともども寄らせていただきたいと思っています。よろしくお願いします_(._.)_。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
のりまきはん、こんばんは
相変わらず、究極一歩手前やってますね。私も今、佐渡の本買ってしまいました。
私、なぜか以前より、イージー・シークという古物販売サイトで古本買っているのですが(最近楽天に買収されたらしいが・・)、ここに、「オートシーク」というキーワード登録しておくと、メールで「こんなの出ましたゼー」と知らせて来る仕組みがあってもっぱら便利してます。のりまきさんも皆さんも使っていると思いますが・・。
キーワード「佐渡」で、佐渡の一夜干し烏賊からタラバカニまで来ちゃうけど、たまには佐渡の古本が網に掛かったりして、喜ばしい限りの事もあります。
ふとまきさんに宜しく、今度埼玉の親戚に遊びに来る時寄って下さい。日曜は居ます。風間
風間さんこんばんは。のりまきです。
こちらは久しぶりです、のりまきは先ほど
またまた大枚はたいて金剛山の資料をネット購入
してしまいました〜〜
それを見ていた妻のふとまきが、『やっぱり私は良き理解者♪』と
鼻歌まじりで主張します〜〜
なんにせん、調べ事にはお金がかかるもの〜〜
古い絵はがきや写真集……魅力のある資料なのだけれども、
思ったように集まらないし、高いし……
『究極の探究者』になるためには、まだまだ修行中であります(笑)。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
茶屋さん、こんばんは
私事ですが、私の仕事は印刷関係の計算機ソフトを作ることでして、最近は某求人情報誌の編集関係のソフトを作ってました。最近はこの手の雑誌もカラー化が進んでいますが、お店のアルバイト募集などですと、店内の写真を載せ先輩店員の皆さんが「一緒に働こ!」などとピースサインを出すと沢山応募があるようです、ビジュアルってすごい。
私が持っている佐渡の写真集は、佐渡の大正と昭和の初期に、田畑を手放して買った乾板写真で佐渡の風俗を撮りまくった「近藤福雄」の「佐渡万華鏡・佐渡博物館発行」と「佐渡写真帖・近藤寿雄発行」の二冊です。これらは、一時絶版となって居ましたが、今はどういう訳か判を重ねアマゾンなどのネット本屋でも買える様ですし、ネット古書店でも買えます。私も佐渡で買った本をだれに貸したのか紛失しアマゾンで買い直しました。
近藤福雄の写真原板は八千枚程度が佐渡博物館に、二千枚程度を子息の近藤寿雄氏が保有しています。
私は、写真集に載ったものだけでなく、これら一万枚が見たくて、同博物館と子息宅で閲覧しました。子息は佐渡に居る義父の友達、博物館も館長が親戚などと好都合に出来ています。
話は別ですが、やはり古写真の写真集で加藤嶺夫さんの「東京消えた街角・河出書房版」という本を持っています。これは昭和二〜三十年代の東京都内の風景写真です。私は文京区大塚で生まれ、この界隈で育ちましたから、私の目にも焼き付いている風景が何枚もあり、懐かしく時々読み返しております。
最近は時代の波に負けてデジタルカメラ常用となってしまいましたが、今後の佐渡の狸穴写真を撮って行こうと考えております。
絵葉書の事は、究極の探求をされている方々が、このフォーラムにも書き込んで居られるようなので・・タッチ
秋も深まってまいりました。ここの所皆様の投稿が無いようですのでこの機会をお借りして、初心者的質問をさせてくださいませ。
画像掲示板、興味深く拝見しました。とくに古写真に興味のある私は、道遊茶屋発行の絵葉書などはじっと凝視していると、胸中にこみあげてくるものがあります。この営業目的で撮影された、芸術作品でもなんでもないただの鉱山の写真が、この写真が撮影され絵葉書になった過去より幾星霜、もはやそこに撮られているビジョンのすべてが今はもう亡き物であって、レーテーの流れに押し流されてしまったものであることを感じるとき、ただもうじっと凝視して、感傷の虜になってしまいます。
過去の投稿を拝見しておりましたら、皆様いろいろ絵葉書コレクションしていらっしゃるようですね。また風間様も大正期の佐渡鉱山写真帖入手されたとか、ございましたが、このような古い絵葉書とか古写真などはやはり神田の古書店街に扱っている業者があるのですか。私はコレクションの趣味はございませんが、(というかハマルのが怖い?)やはり心の慰みに一枚、鉱山の絵葉書か古写真など、手元に置いておきたいと思っています。もし手ごろな値段で置いているような店がありましたら是非お教え下さいませ。
佐渡鉱山のほかにも、明治や大正の頃の端島や高島などの炭鉱の絵葉書など手に入れられたらなと思っております。
皆様、おはよう御座います。
昨日は部屋の片付けをしたあと、夏休みの渡海の時、佐渡の本屋で買ってきた五万と二.五万分の一の地図に点在する砿口をプロットしました。
既報のように、相川役場金銀山課から発刊の砿口探査報告などで、位置確認は出来るのですが
余りに縮尺率の小さな地図上なので、自分の土地感と合いません。
上記程度の地図ですと、「あの山道の奥かあ・・」とか、イメージが湧きます。
かたづけた部屋に佐渡外海府の地図を何枚か貼り付けたものを広げて、
マーカプロットしていくとあの山の斜面に挑んだ人達や、挑まされた人達が居たのだなと、
実感が湧いてきます。
砿口は大佐渡の山懐まで広がっていて、「こりゃ、探査中に遭難するかも・・」
って、感じです。
風間の関心は、これらの零細砿口の採掘主体をだれが持っていたかで、相川鉱山と違い
大抵土地所有者は地元の個人だったようですから、人を雇って採掘させていたのでしょうが、
大きな資本ではないので、どの程度の継続性があったか?などが、知りたい事ではあります。
成績の良い零細砿口は相川鉱山が買い上げて設備投入したと思われます。
今後は、採掘権の譲渡や相場などに調べたいと思います。
どなたか、他の鉱山での試掘/採掘権の管理はどの辺り(郡役所など?)が担当していたかご存じでしょうか?
片山さんこんばんは。のりまきです。
火の熱を用いてで鉱脈を膨張させ、採鉱する方法についての歴史の説明、とても分かりやすくかつ興味深い内容です!2000年以上前からあるのですね……
便利な道具の無かった昔でも、それなりに智恵を絞っていたのですね…今の私たちの生活も、そのような先人たちのもろもろの努力の上に成り立っているのでしょう…
便利な世の中となった今となっては、これまで費やされてきた多くの智恵の中でも、半ば忘れ去られているものも多いでしょう。しかし、そのような努力の過程をしっかり記録に遺していくことは、これからの私たちにとっても大いに役立つこともあると思います。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
石井様、のりまき様
焼き取り掘削法について
この方法について日本だけでなく紀元前からの方法であることをお知らせします。
ただし、小生は不勉強で、日本語でどういう言葉で表現するのかを知らず、念のため英語圏の文献に当たってみました。英語では、"Fire-setting" method といわれています。
初めて記述に現れるのは、紀元前2世紀のエジプトといわれており、17世紀に火薬が発明されるまでは、主要な硬岩掘削の方法だったわけです。
仰せのとおり、ただ薪を積んで燃やすだけの方法と、加熱した岩盤に急激に水をかけて冷却し、熱膨張していた岩盤が急激に収縮することによって亀裂がより多く生じることを利用することも多かったようです。できた亀裂に楔を打ち込んで岩盤を剥がし取ることで、掘削したわけですから、古代エジプト人の知恵に今更ながら、感動を覚えます。
イギリスの古い金属鉱山の旧坑では、今でも、薪を焚いたため黒くすすけた岩盤の引立て(坑道の掘削面)が残っているところがあるようです。
16世紀に鉱山の技術全般について記された、G. Agricola による、"De Re Metallica"にもこの方法は記載されているそうです。小生もいずれは、紐解いてみようと思っています。
火薬を使用するようになってからも、この方法は使われ続け、19世紀初頭まで使われ
ていたようです。残念ながらこの方法は、現代鉱山技術では死語に近く、今や考古学の
一分野として取り上げられることになっているのが現実のようですね。小生は現役なので現代と未来の鉱山技術が興味の中心であり、明治以降の近代西欧鉱山技術をほんの少しかじっている程度ですから、小生の説明では不満の方々が多いと思いますので、詳しくは、考古学や、鉱業史に関する各種HPや文献を参照されたらよいと思います。また、残念ですが日本語の文献では古文書を読解するための、膨大な勉強が必要で、古文書の専門家以外には、あまりお勧めできる方法ではないように思います。とりわけ、技術屋の小生には全く歯が立ちません。小生でもアクセスでき、曲がりなりにも読解可能な、英語やドイツ語の文献は、比較的多くあるようです。ご興味のある方は、米国カルフォルニア大学バークレー校や、英国ウェールズ地方の考古学のHP等をご参照願います。
のりまきさん、こんばんは
新潟は彼の船の出入りで大変な様ですが、私は自宅<>会社の往復のなかで、去りゆく僅かな夏の余韻に浸っております。
帰ったら古書店に頼んでおいた広田貞吉さんの「佐渡方言辞典」なる本が届いていました。
詳しい事は書けないのですが、この本を読むと佐渡方言の流入ルートが多種だと云うことが判ります。中には北海道から来た言葉もあります。
明治の中期に北海道振興策によって(また國策だ)、佐渡の各港が北海道と関西などとの中継地となり、今は外洋船の港などない真野/沢根などの海岸に港が作られ、街も繁盛したようです。
明治の頃は経済にしても、佐渡も含め各地方が、小さな需要の流れ、価値の流れを自分たちの周囲に作り、互いに生きていたように思われます。
現代は需要の流れがあまりに中央集権的になり、音楽で云えば、アユやヒッキー(もう古い?)のCDを国民みんなで聞いているような状態です。もう少し、インディーズ版のCDなど皆で買う様にして、需要と供給の分散を図らないと、一部が大勝ちする経済は長続きしません。
論点が自分でも判らなくなりましたが、要は、漸くメジャーデビューした、「ピジョンズ・ミルク」のCDも聞こうという訳です。
むりやり、今聞いているCDの広告をして、じゃあ、また
石井さん始めまして。のりまきと申します。
実のところ、『焚火採鉱法』について調べていくうちに、石井さんの延沢銀山のページに行き当たりまして、『焼き取り採鉱法』という言葉があることを知りました。おかげでどうやら金剛鉱山で行なわれていた『焚き火』を使った採鉱法がどのようなものであったのかが想像出来ました。ありがとうございます_(._.)_
風間さん、雨続きで少し残念でしたが、佐渡の鉱山の状況がよりよく見えてきたようですね。
そういえば、のりまきは金剛鉱山の情報を『朝鮮の水鉛』という本から手に入れたのですが、この本の中で朝鮮半島の某水鉛(モリブデン)鉱山は、一時300名にも上る盗掘者で溢れかえったとの記述がありました。盗掘行為の是非はともかくとして、昔の人はバイタリティに溢れていたんだな……と思ってしまいました。
便利になって、多くの危険が私たちのまわりから遠くなった反面、生命力というか、開拓者精神というか……なんかそういったものが骨抜きにされて来ている感じがします。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
のりまきさんの言われていた焼き取り採鉱法は東北では延沢銀山でも
行なわれていたようです。
この採鉱法は古くから行なわれていたようで現代のように削岩機など
なかった頃にタガネにハンマーでの手掘りには重宝な手段であったよ
うです。
鉱脈の部分と母岩での比熱の違いを有効利用した知恵がいつごろから
発見されたのかも興味のあるところですが、坑内に薪を持ちこんで
岩が熱くなるまで焚いて冷めてから簡単に岩がはずれたようですが
熱いうちに水をかけると更に効果良く採鉱できたと言う話もあります。
私の延沢銀山にもこの採鉱法を書いてあります。www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/nobesawa/nobesawa.html
先週土曜日より19日まで、佐渡に滞在、それなりに活動して参りました。
今回は天候に恵まれず、訪問した日が晴れ・・程度で他はぼそぼそとした雨、また寒さで
活動も鈍りがちでした。
天気が良ければ、外海府沿いの零細鉱山砿口の探索をするつもりだったのですが断念しました。
月曜日に佐渡相川町役場金銀山課を訪問し、同課が行っている零細鉱山砿口の探索について
お聞きしました。
同課は相川地内、真野町地内の砿口の位置をGPSで特定し、形状記録などを行っています。
相川地内については、弊H/Pで紹介した冊子にまとめて出版していますが、
他の地区については、調査資料の取り扱いを各町の教育委員会に委ねているようです。
それでも、やはり弊H/Pで紹介した真野町地内三貫目沢の採掘跡などの資料を見せて
頂きました。沢に沿って無数の砿口が現存しており、坑内に入ることのできる箇所も
多数あるようです。課員の方は、
「春以外は探索しちゃいかん、縦砿が数メートル口を開けている箇所もあり、
雑草に覆われて落ちると助からない」と云っておられました。
「むー、怖い」
これらの砿口は、相川周辺の主要鉱山以外は、地元の所有で個人採掘していたものが
ほとんど、江戸から幕末までは、盛んに採掘されていたのですが、明治に入って途絶え、
大正/昭和初期に採掘を再開したり、採掘権を買った島外の資本が、多少の設備を投入して
採掘したり、に至ったようです。
この採掘権の売り買いが、島近代の経済に大きく影響していた様で、採掘許可証が各旧家や
地区文書などの残っていますが、これをどこが許可管理したのか(郡役所、県管轄?)は
判りません、この辺りは今後調べてみようと思います。
どうも相川ばかりでなく、新穂鉱山なども地元教育委員会などの手で
砿口の調査が盛んに行われているようです。
この辺りがまとまれば、佐渡の金鉱山の実態の裾野がはっきりすると思われ、楽しみです。
この様な次第で、地元の方達といろいろ話しをすることは多かったのですが、野山を巡ること
は出来なかった渡海でした。
お会いした方達は一様に佐渡の衰退を嘆き、若い人が島に根付くための企業誘致、職場確保、
観光の活性などに悩んでおります。
これは、一佐渡だけでなく、全国の「地方」が抱えることと思われます。
佐渡は近く一島一市になります。現在は数十の町村が別の自治を行っているので、一丸となる
ことは大切と思われますが、島周辺部での行政サービスが薄くなることも事実でしょう。
両津市の教育長の方が云ってましたが、蜂の巣を捕ってくれと電話が掛かり、役場の職員が
出向く、このコストの事を市民は考えない・・・
インフラは自分たちで整備するもの、と考えていた、明治の重立の気概が再度求められる
時代と思われます。
石川さんこんばんは。お久しぶりです_(._.)_
別子銅山のページ拝見しました。
資料の内容的に、あくまで採掘時の話らしいので、『焼鉱』のことではなさそうです。
金剛鉱山については、鉱脈も母岩も硬い花崗岩系であるとの記載があり、熱で岩を膨張させて砕くという採鉱法も有効だったのでは?
ありがとうございます_(._.)_www.norihuto.com/kumgangsan.htm
別紙銅山→別子銅山
訂正します。
私も「焚火採掘法」とか「焼き取り採鉱法」とかいう言葉を聞いたことがありませんが、
http://www.niihamaminami-h.kss.ed.jp/eco/01/003/01.htm
をみると、別紙銅山では、
「地表近くの通気の良いところでは薪に火をつけ、その熱で膨張させ砕き、鉱石を
採るという方法も使われました」
ということなので、そのことかもしれませんね。
あるいは、同じホームページの下のほうにかいてある「焼鉱(しょうこう)」の
ことかもしれませんが。
のりまきさん、こんばんは
今、佐渡から帰りまして、太巻さんにReコメントしたとこです。
焼き取り採鉱法とは? すいません、焼き鳥最高かと思ったくらいで
存じません。ふざけている場合じゃないですよね。
どなたかHelp
佐渡の敗退日記は、少し頭が冷えたら報告します。
続けてのカキコ失礼致します、のりまきです。
金剛山の金剛鉱山についての記述にわからない部分がありました。
鉱山採掘開始当初『焚火採掘法』が行なわれ、10〜20キロ離れた町からでもその煙が見えたとの記述がありました。
焚火採掘法???一応インターネット検索をかけたところ、『焼き取り採鉱法』というものがそれに当たるようだということまではわかったのですが……
いったいどのようなものなのでしょう?焼き取り採鉱法??ちなみに金剛鉱山で焚火採掘法が行なわれていたのは1914〜18年頃です。
ところでこれは鉱業技術フォーラムで尋ねた方が良い質問でしょうか?もしそうならばそちらにも質問をしてみようかと思いますが……www.norihuto.com/kumgangsan.htm
のりまきです。こんばんは。
[234]の私の書き込みですが、実は『金剛鉱山』は2つあったことが判明しました!驚きです!!
最初の金剛鉱山は三井が経営したタングステン中心の鉱山で、その後モリブデンが主要鉱物である別の『金剛鉱山』が開発されたようなのでしす……
場所が全然違う鉱山を同じ名前になんかするな〜〜という感じです(笑)。まぎらわしいことに両方共にタングステンとモリブデンが採掘されていたようで……同一鉱山と思い[234]のカキコをしてしまいました。失礼しました_(._.)_。
また、金剛山の各地に廃鉱が眠っている可能性があることもわかってきました。やはりどこにも知られざる『歴史』があるのだなあ……と思いました。www.norihuto.com/kumgangsan.htm
教育委員会とは別に金銀課があるのは確かにすごいですね。
私も今回相川町役場発行の金銀山の調査目録を入手するまで知りませんでした。
開山四百年行事とかの中心になっていたのだと思います。同町には鉱山事務所の後に鉱山博物館があり、この建物の背後に相川文書館があり、各種の文書管理と研究をしています。ここは三浦さんて方が居てやはり鉱山研究をしています。
冒頭の金銀山課は、相川地内は勿論、沢根町の鶴子鉱山周辺、真野の西三川砂金山周辺の砿口を地元の古老に聞きながら場所の特定をするという地道な検索をしています。
今回は、まだ書物になっていない、相川地内以外の調査結果を教えて貰い、私がうろうろしている零細廃坑巡りを少し体系づけられればと考えています。
しかし、頻繁にうろうろしたいのですが、さすがに埼玉<>佐渡では、年に何度・・に限られてしまいます。それでも、去年は5回渡海しましたし、今年も今回で3度目なのですが、地元に住んでいれば・・と思います。ではまた。
今晩は、茶屋四郎次郎です。
風間様のカキコ拝見し、お盆明けに佐渡に行かれるとのこと、私もそぞろ神にとりつかれ心を狂わされそうな気持ちであります。
おとなりのフォーラムで拝見いたしましたが、役場に「金銀山課」という部署があるのですね。「金山課」でなく、「金銀山課」なのがいいですね。相川鉱山がゴールデン佐渡経営の観光地となった現在、金銀山課の方々のお仕事も、かって鉱山が現役だった頃のお仕事とは変わってきているのではないかなと思いますが、鉱山の従業員の方とはまた違った立場から鉱山に関わっておられるわけで、鉱山のある町の町役場が、行政としてどういう風に鉱山に関わっているのか、また役場の方々が実際どのように鉱山に関わっておられるのか、私も興味を持ちました。是非何か面白い話ありましたらばお聞かせくださいませ。
それでは失礼いたします。
今年は5月末に渡海してから、随分間があいてしまいましたが、お盆明けにまた夏の佐渡へ、もう初秋の佐渡かもしれません。
今日、会社に(以前のコメントでも紹介したかもしれない)佐渡の民俗学者、山本修巳氏が訪ねてきました。
氏の自宅にある屏風の写真集を作る計画なので、その打ち合わせだったのですが、海を渡って来た氏に殺伐とした渋谷の街で会うと、佐渡の風をそのまま持ってきたようで、早く佐渡に行きたくなりました。
お盆明けに行くのは、お盆は島の役場や文書館などに人がいないからで、なにしろお盆は、皆居らず、忙しがって用が足せません。
島では、また古老探しをするつもりです。
今日、ネット本屋に注文していた「佐渡写真帖」という大正ころの佐渡の写真集が来ました。
以前に持っていたのですが、だれかに貸して行方がしれないので、また探しだしました。
また、佐渡の廃鉱山の事など報告致します。
風間
正直申して、佐渡の近代歴史の本などにお約束のように写真の出ている北沢浮遊選鉱場ですが、あんまり興味を持ってはいませんでした。
なんか鉱山と言うと、砿口ばかりが気になって・・今回、石川さんの依頼で何かお答えすべく本箱から文献を引っ張り出し読んでみると、以前に読んで忘れていた戦時国策による増産のころの相川のようすが蘇り、その点却ってお礼申し上げます。
フォーラムって情報を得るだけじゃなくて、こんな事やってる自分はバカじゃないか?と疑問を持ちつつ探求する同好の士が励まし合う場所ですから、じゃんじゃんコメントして下さい。
私は家内の実家が佐渡だものですから、何十年も、夏には義理帰郷してましたが海で泳ぐばかりで佐渡の歴史には無関心でした。
ここの数年、年齢ゆえか興味を持つと「汲めど尽きせぬ佐渡」という感じで、移住まで考えてしまいます。
ついでに、H/Pも見て下さい。
http://homepage2.nifty.com/butetu/
石川さん、びんた切れの水晶さん、河岸を変えないで、こっちで続けて下さい。
どうせ、同じ飲み屋の隣のBOXみたいなものですから・・
おふたりが、お話している間に風間は鉱業技術の方で、浮遊選鉱場と海からの採石について、長口上をさせて貰っちゃいました。
風間
確かに探鉱技術フォーラムのほうがよいと思います。
私も昨晩、こちらに断り書きして探鉱技術フォーラムに書けばよかったです。
石川さん
お返事ありがとうございます。ちょっと 場違いの話題になっていますね。もうちょっとコメントしたいことがあるのですが、3番に移りましょうか?
風間様、投稿者の皆様方、始めまして、茶屋四郎次郎と申します。お隣のフォーラムに、相川鉱山の北沢浮遊選鉱場についての質問をしたところ、思いがけず風間様に情報をご提供頂き、嬉しく思っております。また、石川様、お心使い有難う御座います。このフォーラムにご参加の皆様はいずれも紳士的態度かつ知的で当方敬服しております。私は個人的に鉱山史も含めて日本の近世史、近代史に興味を持ち、現地に赴いて写真を撮ることを好事とする者であります。この度の北沢の浮遊選鉱場の件ですが、自身でもネットで浮遊選鉱について調べました所、素人乍、大体その基本原理程度は解ると同時に日本全国の金属鉱山でもポピュラーに採用されていたものであったことなどを知りました。この程度のことなら自身で調べるべきであったかとカキコしたこと、少々恥ずかしかったのですが、風間様よりこの選鉱場について時代背景など教えて頂き鉱山学よりも寧ろ歴史学的アプローチに興味のある私には有難い結果になりました。私も相川鉱山を中心に佐渡好きでして、数年前には相川の町内から新五郎町、下寺町、中寺町、上寺町、柄杓町、青盤脈、道遊、水金沢、大間、中山、鶴子銀山など彷徨して写真を撮影した事がありました。現在でも佐渡金銀山は気になる鉱山です。過去ログも今後精読し、佐渡の事、また他の鉱山の事、色々ご教授願いたいと思っております。ぜひ宜しくお願いいたします。今日はこれで失礼致します。
びんた切れの水晶様
こちらこそ、地震のことでわからないことを時々教えてもらっていますね。
> 鉱液が割れ目を通過し、鉱物を沈殿させるには、どのくらい開口する必要が
> あるのでしょうか?
まず流体が通過する条件が必要で、どれくらいの規模の割れ目が必要かは、流体の
粘性によります。流体の粘性は、流体の種類や温度によります。
一般的に言えば、マグマよりは水のほうが浸透しやすいし、水よりは水蒸気のほうが、
浸透しやすいです。水蒸気は水が通らないような所も通過します。
鉱物が沈殿するためには、温度・圧力・化学的条件等の時間的あるいは空間的な変化が
必要です。
> 例え